・・・「ところが外へ出て見ると、その晩はちょうど弥勒寺橋の近くに、薬師の縁日が立っている。だから二つ目の往来は、いくら寒い時分でも、押し合わないばかりの人通りだ。これはお蓮の跡をつけるには、都合が好かったのに違いない。牧野がすぐ後を歩きながら・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・その詩や、ハイネ、ゲーテの訳詩に感心したのでもない。が、その編纂した泰西名詩訳集は私の若い頃何べんも繰りかえしてよんだ書物であった。 春月と同年の生れで春月より三年早く死んだ芥川龍之介は、、私くらいの年恰好の者には文学の上でも年齢の上で・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・ かつて私は、書簡もなければ日記もない、詩十篇ぐらいに訳詩十篇ぐらいの、いい遺作集を愛読したことがある。富永太郎というひとのものであるが、あの中の詩二篇、訳詩一篇は、いまでも私の暗い胸のなかに灯をともす。唯一無二のもの。不朽のもの。書簡・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 去年の十月、Aが、中央公論に、オムマ・ハヤムの訳詩、並に伝を載せて、貰った金の一部で、三本の槇、一本の沈丁花、二本可なり大きい檜葉とを買った。二本の槇は、格子の左右に植え、檜葉は、六畳の縁先に、沈丁、他の一本の槇などは、庭に風情を添え・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・ その日はもう夏の来るのに間のない時であったそうで気ままなその人は夏の来るのがあまりおそいと申してのう、腹立ちまぎれに薬師に申しつけて三日三小夜眠りつづける薬をつくらせてそれをのむなりまるで息をせいで深く眠りこんでしまいましたのじゃ。・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・ 彼は又、薬師経を枕元で読ませて居た時、軍くびら大将とよみあげたのを、我を縊ると読みあげたと勘違いして卒倒した男だ。 笑い出すとだらしなくはめを脱した事。横車を押し意だけ高に何かを罵って居た時、才覚のある者が、ふみばさみに文をはさん・・・ 宮本百合子 「余録(一九二四年より)」
出典:青空文庫