・・・ 対等で、真面目に話し合わず、母は気位を以て亢奮し、Aは涙を出し、父が、誘われたようにして居られる光景は、充分私の心を痛めるものだ。 Aが「斯う云う風に思いかえして下されば、僕もどんなに嬉しいか分りません」と云ったに対し、母・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・嘘ほど人を痛めるものはないのじゃ。』 終日かれは自分の今度の災難一件を語った。かれは途ゆく人を呼び止めて話した、居酒屋へ行っては酒をのむ人にまで話した。次の日曜日、人々が会堂から出かける所を見ては話した。かれはこの一件を話すがために知ら・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・そこで佐野さんは、内情を知らない親達が、住職の難癖を附けずに出家を止めるのを聞いて、げにもと思うらしいのに勢を得て、お蝶より先きに東京に出て、或る私立学校に這入った。お蝶が東京に出たのは、佐野さんの跡を慕って来たのであった。 佐野さんは・・・ 森鴎外 「心中」
・・・も、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、役がらゆえ気色には見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった。場合によって非常に悲・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・ 石田はどこか出ようかと思ったが、空模様が変っているので、止める気になった。暫くして座敷へ這入って、南アフリカの大きい地図をひろげて、この頃戦争が起りそうになっている Transvaal の地理を調べている。こんな風で一日は暮れた。・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・働くに適した思考力は彼の頭脳を痛めるのだ。それ故彼は食うことが出来なかった。彼はただ無為の貴さを日毎の此の丘の上で習わねばならなかった。ここでは街々の客観物は彼の二つの視野の中で競争した。 北方の高台には広々とした貴族の邸宅が並んでいた・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫