・・・もう一人は悠然としてズボンのかくしに手を入れ空を仰いで長嘯漫歩しているふぜいである。空はまっさおに、ビルディングの壁面はあたたかい黄土色に輝いている。 こういう光景は十年前にはおそらく見られないものであったろう。この二人はやはり時代を代・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・その夜わたくしは、前々から諦めはつけていた事でもあり、随分悠然として自分の家と蔵書の焼け失せるのを見定めてから、なお夜の明け放れるまで近隣の人たちと共に話をしていたくらいで、眉も焦さず焼けど一ツせずに済んだ。言わば余裕頗る綽々としたそういう・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・という字を傘の形のように繋いだ赤い友禅の蒲団をかけた置炬燵。その後には二枚折の屏風に、今は大方故人となった役者や芸人の改名披露やおさらいの摺物を張った中に、田之助半四郎なぞの死絵二、三枚をも交ぜてある。彼が殊更に、この薄暗い妾宅をなつかしく・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 兎角する中議論はさて措き、如何に痩我慢の強い我輩も悠然としてカッフェーのテーブルには坐っていられないようになった。東京の新聞紙が挙って僕のカッフェーに通うのは女給仕人お民のためだという事を報道するや、以前お民をライオンから連出して大阪・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然として常よりも切なきわれに復る。何事も解せぬ風情に、驚ろきの眉をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサー・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・空しき心のふと吾に帰りて在りし昔を想い起せば、油然として雲の湧くが如くにその折々は簇がり来るであろう。簇がり来るものを入るる余地あればある程、簇がる物は迅速に脳裏を馳け廻るであろう。ウィリアムが吾に醒めた時の心が水の如く涼しかっただけ、今思・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・もって悠然、世と相おりて、遠近内外の新聞の如きもこれを聞くを好まず、ただ自から信じ自から楽しみ、その道を達するに汲々たれば、人またこれに告ぐるに新聞をもってする者少なく、世間の情態、また何様たるを知らず、社中自からこの塾を評して天下の一桃源・・・ 福沢諭吉 「中元祝酒の記」
・・・念を入れた化粧をし、メリンス友禅の羽織を着、物を云うとき心持頭を左に曲げながら、何故か苦しそうに匂やかな二つの眉をひそめて声を出すのであった。 少し荒れた赤い小さな唇を見「さようでございますの」と云う含声をきいた時、さほ子は此娘をお前と・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ あてどもなく二人は歩き廻って夜が更けてから家に帰った、ポーッとあったかい部屋に入るとすぐ女はスルスルと着物をぬいで白縮緬に女郎ぐもが一っぱいに手をひろげて居る長襦袢一枚になって赤味の勝った友禅の座布団の上になげ座りに座った。浅黄の衿は・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 元禄踊りの絵屏風をさかしまに悲しく立て廻した中にしなよく友禅縮緬がふんわりと妹の身を被うて居る。「常日頃から着たい着たいってねえ云って居た友禅なのよ華ちゃん、今着て居るのが――分って? いらえもなく初秋の夜の最中に糸蝋・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
出典:青空文庫