・・・よりほかの語が出て来なかったのである、正直なる余は苟且にも豪傑など云う、一種の曲者と間違らるるを恐れて、ここにゆっくり弁解しておくなり、万一余を豪傑だなどと買被って失敬な挙動あるにおいては七生まで祟るかも知れない、 忘月忘日 人間万事漱・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・それは見晴しの好い峠の山道を、ひとりでゆっくり歩きたかったからであった。道は軌道に沿いながら、林の中の不規則な小径を通った。所々に秋草の花が咲き、赫土の肌が光り、伐られた樹木が横たわっていた。私は空に浮んだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・今朝はゆっくりなすッて、一口召し上ッてからお帰りなさいましな」「そうさね。どうでもいいんだけれど、何しろ寒くッて」「本統に馬鹿にお寒いじゃあありませんかね。何か上げましょうね。ちょいとこれでも被ッていらッしゃい」と、お熊は衣桁に掛け・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬んでいる。 爺いさんは穹窿の下を、二三歩出口まで歩いて行って、じっと外を見ている。雪は絶間なく渦を巻いて地の上と水の上とに落ちる。その落ちるのが余り密なので、遠い所・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・従ってゆっくりと其問題を研究する余裕がなく、ただ断腸の思ばかりしていた。腹に拠る所がない、ただ苦痛を免れん為の人生問題研究であるのだ。だから隙があって道楽に人生を研究するんでなくて、苦悶しながら遣っていたんだ。私が盛に哲学書を猟ったのも此時・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり物を書いている。友人等はこの男を「先生」と称している。それには冷かす心持もあるが、たしかに尊敬する意味もある。この男の物を書く態度はいかにも規則正しく、短い間を置いてはまた書く。その間には人・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・「いや改めてゆっくり参りましょう。サヨナラ。おい車屋、金助町だ。」「ヤアこれは驚いた。先生もうそんなにお宜しいのですか。もうお出になっても宜しいのですか。マアどうぞ、サアこちらへ。お目出とう御座います。旧年中はいろいろ、相変りませず。」・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・水がこぼこぼ裂目のところで泡を吹きながらインクのようにゆっくりゆっくりひろがっていったのだ。 水が来なくなって下田の代掻ができなくなってから今日で恰度十二日雨が降らない。いったいそらがどう変ったのだろう。あんな旱魃の二年続いた記録が無い・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・が、渡辺氏は、そういう理論づけを我からつきくずして、まるでその口元が目にみえるような煽動の語調で、一言一言ゆっくりと、ソヴェトの社会主義なんかは「インチキ」といわれました。どんな客観的理由も説明せず、三十年間の社会主義社会建設の歴史をもって・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ 木村はゆっくり構えて、絶えずこつこつと為事をしている。その間顔は始終晴々としている。こういう時の木村の心持は一寸説明しにくい。この男は何をするにも子供の遊んでいるような気になってしている。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないの・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫