・・・もし事情が許せば、静かなこの町で隠逸な余生を楽しむ場合、陽気でも陰気でもなく、意気でも野暮でもなく、なおまた、若くもなく老けてもいない、そしてばかでも高慢でもない代りに、そう悧巧でも愚図でもないような彼女と同棲しうるときの、寂しい幸福を想像・・・ 徳田秋声 「挿話」
昨日は失敬。こう続けざまに芝居を見るのは私の生涯において未曾有の珍象ですが、私が、私に固有な因循極まる在来の軌道をぐれ出して、ちょっとでも陽気な御交際をするのは全くあなたのせいですよ。それにも飽き足らず、この上相撲へ連れて・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・ウウウウと云う音が丸い段落をいくつも連ねて家の周囲を二三度繞ると、いつしかその音がワワワワに変化する拍子、疾き風に吹き除けられて遥か向うに尻尾はンンンと化して闇の世界に入る。陽気な声を無理に圧迫して陰欝にしたのがこの遠吠である。躁狂な響を権・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・彼はショーペンハウエルが揚棄した意志を、他の一端で止揚したまでである。あの小さな狡猾さうな眼をした、梟のやうな哲学者ショーペンハウエルは、彼の暗い洞窟の中から人生を隙見して、無限の退屈な欠伸をしながら、厭がらせの皮肉ばかりを言ひ続けた。一方・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 監獄に放り込まれるような、社会運動をしてるのは、陽気なことじゃないんです。 ヘイ。 私は、どちらかと言えば、元気な方ですがね。いつも景気のいい気持ばかりでもないんです。 ヘイ。 監獄がどの位、いけすかねえところか。・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向の明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している。すると、議論じゃ一向始末におえない奴が、浅墓じゃあるが、具体的に一寸眼前に現て来てい・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・第二の精霊 もうその先はやめにしよう、陽気のせいか耳がいたむワ。デモナ、口のさきではどうにでも□□(るものじゃ、トックリと胸に手を置いて考えて見なされ、日光にてらされたばかりじゃなくはげた頭が妙に熱うなる骨ばった手がひえて身ぶるいが出る・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・また反ナチ派の勢力の下にあったバイエルン州のミュンヘンでは、この報知をきいても、ナチの悪計とは知らず、エリカ・マンの胡椒小屋は謝肉祭の大陽気で、反ナチの寸劇などに興じていた。 あくる朝、すべての興奮は恐怖にかわって、全ドイツの人々が国会・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・ 三・一五、四・一六などの後、運動の困難と再建の事業が集注的関心となった時代には、コロンタイズムは一応揚棄され、運動のためにはあらゆる個人の感情、個人生活の利害を犠牲にしなければならぬものであるという、いわゆる鉄の規律が一般の理解におか・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・ いずれ永いジグザグの道を経た上でのことだろうが、女の幸福の問題はやがて次第にその局部的な、しかしきわめてその社会の基本的なありようと関係しあった特殊性を高めひろげ、揚棄して行って、いつかは人間の幸福についての具体的な条件の一つとして、・・・ 宮本百合子 「幸福の感覚」
出典:青空文庫