・・・ しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。 人類がまだ草昧の時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・ 先生が洋行するので横浜へ見送りに行った。船はロイド社のプロイセン号であった。船の出るとき同行の芳賀さんと藤代さんは帽子を振って見送りの人々に景気のいい挨拶を送っているのに、先生だけは一人少しはなれた舷側にもたれて身動きもしないでじっと・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・もう今日の洋画家中唯一の浅井忠氏を除けばいずれも根性の卑劣なぼうしつの強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭であるから邪魔をしようとするのである。驚いたものだ。不・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・このことが火災の損害に対する一般の無関心を説明する一つの要項であるには相違ないのであるが、しかしともかくも日本の国の富が年々二億円ずつ煙と灰になって消失しつつある事実を平気で見過ごすということは少なくも為政の要路に立つ人々の立場としてはあま・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・また向うからただ一人、洋紅色のコートを着た若い令嬢が俯向いたまま白いショールで口を蔽うて、ゆっくりゆっくり歩いて来る。血色のいい頬、その頬が涙で洗われている。 正月の休みで、外には誰も通る人がない。旧解剖学教室、生理学教室の廃墟には冬枯・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・芋の葉と形はよく似ているが葉脈があざやかな洋紅色に染められてその周囲に白い斑点が散布している。芋から見れば片輪者であり化け物であろうが人間が見るとやはり美しい。 ベコニア、レッキスの一種に、これが人間の顔なら焼けどの瘢痕かと思われるよう・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・だけれど健ちゃんこのごろ少し遊びだしたようで……今年の春も、えらいハイカラな風してきたのや。洋行でもするようなお荷物でもって。ちょっとも私なんかと話しちゃいないですわ。方々飲みあるいてばかりいるんです。年もゆかないのに大酒飲みやさかえ、私も・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・雲が破けて、陽光が畑いちめんに落ちると、麦の芽は輝き躍って、善ニョムさんの頬冠りは、そのうちにまったく融けこんでしまった。 それだから、ちょうどそのとき、一匹の大きなセッター種の綺麗な毛並の犬が、榛の木の並樹の土堤を、一散に走ってくるの・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・さまざま思悩んだ果は、去るとも留るとも、いずれとも決心することができず、遂に今日に至った。洋行も口にはいいやすいが、いざこれを実行する段になると、多年住みふるした家屋の仕末をはじめ、日々手に触れた家具や、嗜読の書をも売払わなければならない。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・しかし執筆の当時には特に江戸趣味を鼓吹する心はなかった。洋行中仏蘭西のフレデリック・ミストラル、白耳義のジョルヂ・エックー等の著作をよんで郷土芸術の意義ある事を教えられていたので、この筆法に倣ってわたくしはその生れたる過去の東京を再現させよ・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
出典:青空文庫