・・・の一節にある幼児のことを、それが著者のどの子供であるかという質問をよこした先生があった。その時はあまり立入った質問だと思ったのでつい失礼な返事を出してしまった。理科の教科書ならばとにかく多少でも文学的な作品を児童に読ませるのに、それほど分析・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
・・・リットルのビールを二杯注文して第一杯はただひと息、第二杯は三口か四口に飲んでしまって、それからお皿に山盛りのチキンライスか何かをペロペロと食ってしまった、と思うともう楊枝をくわえてせわしなく出て行った。 なんだか非常にうらやましい気がし・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・兎唇の手術のために入院している幼児の枕元の薬瓶台の上で、おもちゃのピエローがブリキの太鼓を叩いている。 ブルルル。ブルルル。ブルブルブルッ。 窓の下から三間とはなれぬ往来で、森田屋の病院御用自動車が爆鳴する。小豆色のセーターを着た助・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・かきながら楊枝を縦に口の中へ立てたのをかむ癖があった。当時のいわゆる文人墨客の群れがしばしばその家に会しては酒をのんで寄せがきをやっていたりした。一方ではまた当時の自由党員として地方政客の間にも往来し、後には県農会の会頭とか、副会頭とか、そ・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・そして大きな褄楊枝で草色をした牛皮を食べていると、お湯の加減がいいというので、湯殿へ入っていった。すると親類の一人から電話がかかって、辰之助が出てゆくと、今避難者が四百ばかり著くから、その中に道太の家族がいるかもしれないというのであった。道・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・「それから私もちょっと用事ができて、きゅうにいったんかえることになりましたので」道太は話しだした。「どうもありがとう。わしはまあこれで心配はないから」兄はそう言って、道太が思ったよりさっぱりしていた。 道太はやっと安心して、病室・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 争議以前から、組合の用事だと云えば、何かにつけて飛んで行った利助である。利平の云うままになって、会社へ送り込まれるということからして、今から考えれば、少し変には変だったのだ。「コレじゃ、まるで、親も子も、義理も人情もあったもんじゃ・・・ 徳永直 「眼」
・・・下女は日が暮れたと云ったら、どんな用事があっても、家の外へは一歩も踏出さなくなった。忠義一図の御飯焚お悦は、お家に不吉のある兆と信じて夜明に井戸の水を浴びて、不動様を念じた為めに風邪を引いた。田崎が事の次第を聞付けて父に密告したので、お悦は・・・ 永井荷風 「狐」
・・・そして其処には使捨てた草楊枝の折れたのに、青いのや鼠色の啖唾が流れきらずに引掛っている。腐りかけた板ばめの上には蛞蝓の匐た跡がついている。何処からともなく便所の臭気が漲る。 衛生を重ずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・「どうして、こんなに早く、――何か用事でも出来たんですか」と御母さんが真面目に聞く。どう答えて宜いか分らん。嘘をつくと云ったって、そう咄嗟の際に嘘がうまく出るものではない。余は仕方がないから「ええ」と云った。「ええ」と云った後で、廃・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫