・・・いや、私は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・が、流石に愕然としたのはこの時である。が、理性は一度脅されても、このくらいな事でその権威を失墜しはしない。思わず、M・C・Cの手を口からはなした本間さんは、またその煙をゆっくり吸いかえしながら、怪しいと云う眼つきをして、無言のまま、相手のつ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。 つまり二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依ったのではない。寧ろ地上に遍満した我我・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・しかし生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリーに変わって、泣き崩れて理性を失うというような所はなかった。父が自分の仕事や家のことなどで心配したり当惑したりするような場合に、母がそれを励まし助けたことがしばしばあった。後に母の母が同棲す・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・意志薄弱なる空想家、自己および自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避している卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にしてわずかに慰めている臆病者、暇ある時に玩具を弄ぶような心をもって詩を書きかつ読むいわゆる愛詩家、および自己の神経組織の不健全なことを・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・そして、理性がついに戦いに打勝ったと信ずるものです。其時からの文明こそ本当の輝きある文明であって、其の後に来る、進歩した人間の生活がやがてまた望まれるのでありましょう。 良心を失った社会は、いくら努力しても目的には達しない。知識も、また・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・本能も、理性も、この世界にあっては、最も自由に、完美に発達をなし遂げることが出来るのであります。何者の権力を以てしても、この自由を束縛することができない。 私は、童話の世界を考えた時に、汚濁の世界を忘れます。童話の創作熱に魂の燃えた時に・・・ 小川未明 「『小さな草と太陽』序」
・・・――人々はもはや耳かきですくうほどの理性すら無くしてしまい、場内を黒く走る風にふと寒々と吹かれて右往左往する表情は、何か狂気じみていた。 寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然として、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走から1の番号の馬・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・と私の理性が信じていても、澄み透った水音にしばらく耳を傾けていると、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、訝かしい魅惑が私の心を充たして来るのだった。 私はそれによく似た感情を、露草の青い花を眼にする・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・そこには感情の弛緩があり、神経の鈍麻があり、理性の偽瞞がある。これがその象徴する幸福の内容である。おそらく世間における幸福がそれらを条件としているように。 私は以前とは反対に溪間を冷たく沈ませてゆく夕方を――わずかの時間しか地上に駐まら・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫