・・・私がおしるこ二つ、と茶店の老婆に命じたところ、少年は、「親子どんぶりがあるかね?」と私の傍に大きなあぐらをかいて、落ちついて言い出したので、私は狼狽した。私の袂には、五十銭紙幣一枚しか無いのである。これは先刻、家を出る時、散髪せよと家の・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・なんとか助けて下さい、と懇願しても、その三十歳くらいの黄色い歯の出た痩せこけた老婆、ろくろく返事もなく、規則は規則ですからねえ、と呟いて、そろばんぱちぱち、あまりのことに私は言葉を失い、しょんぼり辞去いたしましたが、篠つく雨の中、こんなばか・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・日本でも、むかしから、猫が老婆に化けて、お家騒動を起す例が、二、三にとどまらず語り伝えられている。けれども、あれも亦、考えてみると、猫が老婆に化けたのでは無く老婆が狂って猫に化けてしまったのにちがいない。無慙の姿である。耳にちょっと触れると・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・ 帰りに沓掛の駅でおりて星野行きの乗合バスの発車を待っている間に乗り組んだ商人が運転手を相手に先刻トラックで老婆がひかれたのを目撃したと言って足の肉と骨とがきれいに離れていたといったようなことをおもしろそうに話していた。バスが発車してま・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・これを翻訳すると「変な老婆が登場して、変な老爺をしかり飛ばした」というのである。その芝居の下手さが想像される。 つい近ごろある映画の試写会に出席したら、すぐ前の席にやはり十歳ぐらいの男の子を連れた老紳士がいた。その子供がおそらく生まれて・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・たとえばある一人の虚無的な思想をもった大学生に高利貸しの老婆を殺させる。そうして、これにかれんな町の女や、探偵やいろいろの選まれた因子を作用させる。そうして主人公の大学生が、これに対していかに反応するかを観察する。これは一つの実験である。た・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・話の様子で察してみると、誰かこの老婆の身近い人が、川崎辺の病院にでもはいっていて、それが危篤にでも迫っているらしい。間に合うかどうかを気にしているのを、男がいろいろに力をつけて慰めてでもいるらしかった。こういう老婆を見ると、いかにも弱々しく・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
映画「マルガ」で猿の親子連れの現われる場面がある。その猿の子供の方が親猿のよりもずっとよく人間に似ている。しかも、それは人間のうちでも老人の顔に似ている。そうして老翁よりはより多く老婆の顔に似ているのである。それで、人間が・・・ 寺田寅彦 「猿の顔」
・・・ 道太はそんながりがりした老婆をかつて見たことがなかった。「奥さんのお墓参りなさいましたか」「いずれ帰るまでには……」道太は笑っていた。「私も一遍おまいりしたいと思うて」 道太はお絹の母である方のお婆さんにも、たびたびそ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・髪を切り下げにした隠居風の老婆が逸早く叫んだ。 けれども車掌は片隅から一人々々に切符を切て行く忙しさ。「往復で御在いますか。十銭銀貨で一銭のお釣で御在います。お乗換は御在いませんか。」「乗換ですよ。ちょいと。」本所行の老婆は首でも絞・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫