・・・なくなられたその日までも庭の掃除はしたという老父がいなくなってまだ十月にもならないのに、もうこのとおり家のまわりが汚なくなったかしらなどと、考えながら、予も庭へまわる。「まあ出しぬけに、どこかへでも来たのかい。まあどうしようか、すま・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・その前月おせいは一度鎌倉へつれ帰されたのだが、すぐまた逃げだしてき、その解決方に自分から鎌倉に出向いて行ったところ、酒を飲んでおせいの老父とちょっとした立廻りを演じ、それが東京や地方の新聞におおげさに書きたてられて一カ月と経っていない場合だ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・気まぐれな兄の性質が考えられるだけに、どうせ老父の家へ帰ったって居つけるものではないと思ったのだ。「しかし酒だけは、先も永いことだから、兄さんと一緒に飲んでいるというわけにも行きますまいね。そりゃ兄さんが一人で二階で飲んでる分にはちっと・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・否さまでならず、ただ去年のものにはすこしく優れりとうち消すようにいうは老婦なり。俳優のうちに久米五郎とて稀なる美男まじれりちょう噂島の娘らが間に高しとききぬ、いかにと若者姉妹に向かっていえば二人は顔赤らめ、老婦は大声に笑いぬ。源叔父は櫓こぎ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・梅子は例の如く笑味を含んで老父の酌をしている。「ヤ細川! 突如に出発ので驚いたろう、何急に東京を娘に見せたくなってのう。十日ばかりも居る積じゃったが癪に触ることばかりだったから三日居て出立て了った。今も話しているところじゃが東京に居る故・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうち退潮の痕の日に輝っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供でもない。何かしきりに拾っては籠か桶・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 清三は老父の心持を察して何か気の毒になったらしく、止めさせるような言葉を挟み挟み、浅草へ行く道順を話をし、停留場まで一緒に行って電車にのせてやった。 じいさんとばあさんとは、大きな建物や沢山の人出や、罪人のような風をした女や、眼が・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・ 初めわたしはさして苦しまずに、女主人公の老父がその愛嬢の帰朝を待つ胸中を描き得たのは、維新前後に人と為った人物の性行については、とにかく自分だけでは安心のつく程度まで了解し得るところがあったからである。これに反して当時のいわゆる新しい・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・「二人は一緒に若返りました――彼女は恋する乙女に、彼は恋する若者に、一緒に人生に歩み入るところの――そして互いに生涯の別れを告げているところの――病みほつれた老人と死につつある老婦ではありませんでした。」 カールはもう一度丈夫になれ・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・この知識が偶然の功を奏して、当時富士見町の角屋敷に官職を辞していた老父のところへ、洋行がえりの同県人と称して来て五十円騙った男を追跡し、それをとりかえしたという逸話さえある。しかしながら、遽しく船出して見れば、境遇上故郷に走せる思いはおのず・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
出典:青空文庫