・・・ 白き香りの鼻を撲って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故とは知らず、悉く身は痿えて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 濛々と天地を鎖す秋雨を突き抜いて、百里の底から沸き騰る濃いものが渦を捲き、渦を捲いて、幾百噸の量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の煙りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 松戸与三は、湧きかえるような、子供たちの騒ぎを身の廻りに覚えた。 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻った。「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・広し家族多しといえども、一家の夫婦・親子・兄弟姉妹、相互いに親愛恭敬して至情を尽し、陰にも陽にも隠す所なくして互いにその幸福を祈り、無礼の間に敬意を表し、争うが如くにして相譲り、家の貧富に論なく万年の和気悠々として春の如くなるものは、不品行・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・(ああ、マジエル様、どうか憎マジエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。 美しくまっ黒な砲艦の烏は、そのあいだ中、みんなといっしょに、不動の姿勢をとって列びながら、始終きらきらきらきら涙をこぼし・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・人民層の多様さに応じた多様な歴史的善意が、それぞれの必然によって湧きたち、そのものとしてうけ入れられ、結合され高められつつあります。個人の善意がそのような形で結集しよりつよい形で生かされようとしています。 この新しい段階の多様な面白さ、・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧き立った時も、僕はその渦巻に身を投じて、心から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高が・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・この涙、ああらこの身の心はまださほど弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜見た怖い夢は……ああ思い入ればいとどなお胸は……胸は湧き起つわ。矢口とや、矢口はいずくぞ。翼さえあらばかほどには……」 思い入ってはこらえかねてそぞろに涙を・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・空気は晴れ渡った空と海と山との三色の緑の色素の中から湧き上った。物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳と、花壇の中で花瓣の上に降りかかる忍びやかな噴水の音ぐらいにすぎなかった。そうして、愛は・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・とともに新しい勇気が底力強く湧き上がって来た。 親しい友人から受けた忌憚なき非難は、かえって私の心を落ちつかせた。烈しい苦しみと心細さとのなかではあったが、自分にとっての恐ろしい真実をたじろがずに見得た経験は私を一歩高い所へ連れて行った・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫