・・・「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報を打ってくれ。」「そんなに悪いの?」 洋一は思わず大きな声を出した。「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」 洋・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 彼れは妻と言葉を交わしたのが癪にさわった。そして馬の鼻をぐんと手綱でしごいてまた歩き出した。暗らくなった谷を距てて少し此方よりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影は、人気のない所よりもかえって自然を淋・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ この刹那には、この場にありあわしただけの人が皆同じ感じに支配せられている。どうして、この黒い上衣を着て、シルクハットを被った二十人の男が、この意識して、生きた目で、自分達を見ている、生きた、尋常の人間一匹を殺すことが出来よう。そんな事・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ その杉を、右の方へ、山道が樹がくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生乱れ、どくだみの香深く、薊が凄じく咲き、野茨の花の白いのも、時ならぬ黄昏の仄明るさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。梢に響く波の音、吹当つる浜風は・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ヘイ、耳がすこし遠いのでござります。ヘイあの西山の上がすこし明るうござりますで、たいていだいじょうぶでござりましょう。ヘイ、わしこの辺のことよう心得てますが、耳が遠うござりますので、じゅうぶんご案内ができないが残念でござります、ヘイ」「・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんですよ。」「そうどすか?」と、細君は亭主の方へ顔を向けた。「まだ女房にしかられる様な阿房やない。」「そやさかい、岩田はんに頼んどるのやおまへんか?」「女郎どもは、ま・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 数年前物故した細川風谷の親父の統計院幹事の細川広世が死んだ時、九段の坂上で偶然その葬列に邂逅わした。その頃はマダ合乗俥というものがあったが、沼南は夫人と共に一つ俥に同乗して葬列に加わっていた。一体合乗俥というはその頃の川柳や都々逸の無・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・の平和を説く、然れども来らんとする審判を説かない、彼等は聖書聖書と云うと雖も聖書を説くに非ずして、聖書を使うて自己の主張を説くのである、願くば余も亦彼等の一人として存ることなく、神の道を混さず真理を顕わし明かに聖書の示す所を説かんことを、即・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・麗わしい家族制度のためにも、私は、お母さんが、いつも家庭の人たらんこと望むのであります。しかし、それはいまのところ出来ぬ話でありますが、お母さんが、家にいる時、仕事に気を取られていたとする。或は、何か考え事などあって、子供の返事どころでなか・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・ 私も――縁起でもないけど――何しろお前さんの便りはなし、それにあちこち聞き合わして見ると、てんで船の行方からして分らないというんだもの。ああ気の毒に! 金さんはそれじゃ船ぐるみ吹き流されるか、それとも沖中で沈んでしまって、今ごろは魚の餌食・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫