・・・ 四人は黙って杯を取り交わした。杯が一順したとき母が言った。「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」「ほんにそうでござりまするな」と言って、長十郎は微笑を含んで、心地よげに杯を重ねた。 しばらくして長十郎が母・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・今は錐も立てられぬほどの賑わしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であッた。実に今は住む百万の蒼・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「上加減や、こりゃうまい、お霜さん、わしは酒加減はよう味るぞな、一時亀山でや、わしがおらんと倉が持ていでのう。」 勘次は安次を待つのが五月蠅かった。ひとり出かけて行って秋三の狡さを詰ろうかとも思ったが、それは矢張り自分にとって不得策・・・ 横光利一 「南北」
・・・己の腹の中で思う事を、あの可哀らしい静かな声が言い現わしているのだな。なんだか不気味な言草だ。そうは思ったが一番しまいに云った一言で、その不気味な処は無くなってしまった。兎に角若い婦人が傍にいるのである。別品かもしれない。この退屈な待つ間を・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・というと、さも見下果たという様子を口元にあらわして、僕の手を思い入れ握りしめ、「どうしてどうしてお死になされたとわたしが申た愛しいお方の側へ、従四位様を並べたら、まるで下郎を以て往たようだろうよ」と仰有ってまたちょっと口を結び、力のなさそう・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・すなわち民族全体は、最も小さい子供から最も年長の老人に至るまで、その身ぶり、動作、礼儀などに、自明のこととして明白な差別や品位や優美などを現わしていた。王侯や富者の家族においても、従者や奴隷の家族においても、その点は同じであった。 フロ・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
出典:青空文庫