・・・並みはずれに大きな頭蓋骨の中にはまだ燃え切らない脳髄が漆黒なアスファルトのような色をして縮み上がっていた。 N教授は長い竹箸でその一片をつまみ上げ「この中にはずいぶんいろいろなえらいものがはいっていたんだなあ」と言いながら、静かにそれを・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・流れた水が、灰色のアスファルトの道路に黒くくっきりと雲の絵をかいている。 またある日。 窓の下の森田屋の前で、運転手と助手とが羽根をついている。十くらいの女の子も二人でついている。子供の方が大人より上手である。若い丸髷の下町式マダム・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・ 秋雨の降っている或る日、足駄をはいてその時分はまだアスファルトになっていなかったその坂を下りて来た。悲しそうな犬の長吠えが聞えた。傘をあげて見たら、そこは、例のぶちまだらな犬のいる家の前で、啼いているのはほかならぬその犬なのだったが、・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・その女の顔は、うしろから灯かげがさしてアスファルトの上に落ちているから、こっちからは見えない。 一番おしまいであった私の後に、若くもない男が又来て列についた。人数は疎らだのに、さしている傘ばかりが重なり合うようで、猶暫く立っていたら、そ・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・ それから間もなく水色のお召のマントに赤い緒の雪駄、かつら下地に髪を結んで、何かの霊の様なお龍と男はにぎやかなアスファルトをしきつめた□(通りを歩いて居た。通る男も通る男も皆自分からお龍をはなしてもって行きたそうに思われた、そして又女も・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 長崎のステイションも、夜来の雨で、アスファルトが泥でよごれている。僅かの旅客の後に跟き、私共は漠然期待や好奇心に満ちて改札口を出た。赤帽と、合羽を着た数人の俥夫が我々をとり巻いた。「お宿はどこです」「お俥になさいますか」「・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 西へ向って真直に二本、アスファルト通がとおっている。左右は、おそろしく高い切り通しの石だたみで、二つの崖をつなぐ鉄の陸橋が、宵空に太く黒く近代都市らしい輪郭を浮き出させている。この高台は、昔東京の海がずっと深く浅草附近まで入りこんでい・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・新ソヴェトの滑らかなアスファルト道の上で、そういう蹄は高く朗かに鳴った。十一月中旬の、まだ合外套も歩いてる午後七時の往来に小さい籠を持ったリンゴ売が出ている。芸術座小舞台へ入る門の前で、女が――プログラム! プログラム、十カペイキ!「我等の・・・ 宮本百合子 「モスクワの辻馬車」
・・・ ヨーロッパの買占人、紐育ウォール・ストリートでは、アスファルトとギャソリンくさい空気の中で著名なる経済学者ベブソン氏を不安ならしめつつ、未曾有の貸出と買占が行われている。 ベルファストでは英国労働組合が大会開催中だ。議長ベン・・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・ 雨はひどくなってアスファルトの上へ雨あしをはじいている。賑やかな街の灯は高い家々の間から公園の向う、男が歩いて行った方とは逆の方に輝いている。 明日はメーデーだ。 ポーランドのメーデーはどんな風だろうか、わたしたちはその前年の・・・ 宮本百合子 「ワルシャワのメーデー」
出典:青空文庫