・・・もかけなかったが、段々と悪戯が嵩じて、来客の下駄や傘がなくなる、主人が役所へ出懸けに机の上へ紙入を置いて、後向に洋服を着ている間に、それが無くなる、或時は机の上に置いた英和辞典を縦横に絶切って、それにインキで、輪のようなものを、目茶苦茶に悪・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・ 硝子のインキスタンドが大嫌いで、先生はわざわざ自身で考案して橋口に作らせたことがある。ところがその出来上ったインキスタンドは実に嫌な格好の物で、夏目さん自身も嫌で仕様がないとこぼしておられたことを記憶している。 左様、原稿紙も支那・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・一と口にいうと、地方からポッと出の山出し書生の下宿住い同様であって、原稿紙からインキの色までを気にする文人らしい趣味や気分を少しも持たなかった。文房粧飾というようなそんな問題には極めて無頓着であって、或る時そんな咄が出た時、「百万両も儲かっ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 親の代からの印刷業で、日がな一日油とインキに染って、こつこつ活字を拾うことだけを仕事にして、ミルクホール一軒覗きもしなかった。二十九の年に似合わぬ、坂田はんは堅造だ、変骨だといわれていた。両親がなく、だから早く嫁をと世話しかける人があ・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通の籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や学校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いていた。幾日も放ったらかしてあった七つになる長女の髪をいゝ加減に束ねてやって、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・しかし、なぜかなつかしくって、息子がインキで罫紙に書いた手紙を、鼻さきへ持って行って嗅いで見た。清三の臭いがしているように思われた。やがて為吉が帰ると、彼女はまっ先に手紙を見せた。 為吉は竈の前につくばって焚き火の明りでそれを見たが、老・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・ その日、快晴、談笑の数刻の後、私はお金をとり出し、昨夜の二十枚よりは、新しい、別な二十枚であることを言外に匂わせながら、しかも昨夜この女から受けとったままに、うちの三枚の片隅に赤インキのシミあったことに、はっと気づいて、もうおそい、萱・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 普通の白地に黒インキで印刷した文字もあった。大概やっと一字、せいぜいで二字くらいしか読めない。それを拾って読んでみると例えば「一同」「円」などはいいが「盪」などという妙な文字も現われている。それが何かの意味の深い謎ででもあるような気が・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・その時誰かの万年筆のインキがほんの少しばかり卓布を汚したのに対して、オーバーケルナーが五マルクとかの賠償金を請求した。血気な連中のうちの一人の江戸っ子が、「それじゃインキがどれだけ多くついてもやはり同じ事か」と聞いた。そうだという返答をたし・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ほぼこれと同大のガラス板に墨と赤および緑のインキでいいかげんな絵を描いたのをこの小さなスクリーンの直接の背後へくっつけて立てて、その後ろに石油ランプを置くだけである。もっともそのスクリーンの周囲の同平面をふろしきやボール紙でともかくもふさい・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
出典:青空文庫