・・・屋根のトタンにも石にも一面に名前や日付が刻みつけてあります。塔をおりて扉をドンドンたたく。しばらく待ってもあけてくれぬ。またドンドン靴でける。しばらく待っているとやっとあけてくれた。入れちがいにまた一人塔へ上る人があって、これにも同じ事をい・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・ 可笑しいことには、古来の屋根の一型式に従ってこけら葺の上に石ころを並べたのは案外平気でいるそのすぐ隣に、当世風のトタン葺や、油布張の屋根がべろべろに剥がれて醜骸を曝しているのであった。 甲州路へかけても到る処の古い村落はほとんど無・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・浴後の茶漬も快く、窓によれば驟雨沛然としてトタン屋根を伝う点滴の音すゞしく、電燈の光地上にうつりて電車の往きかう音も騒がしからず。こうなれば宿帳つけに来し男の濡れ髪かき分けたるも涼しく、隣室にチリンと鳴るコップの音も涼しく、向うの室の欄干に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ プロレタリアの群居街からは、ユラユラとプロレタリアの蒸焼きの煙のような、見えないほてりが、トタン屋根の上に漂うていた。 そのプロレタリア街の、製材所の切屑見たいなバラックの一固まりの向うに、運河があった。その運河の汚ない濁った溜水・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
一面、かなり深い秋霧が降りて水を流した様なゆるい傾斜のトタン屋根に星がまたたく。 隣の家の塀内にある桜の並木が、霧と光線の工合で、花時分の通りの美くしい形に見える。 白いサヤサヤと私が通ると左右に分れる音の聞える様・・・ 宮本百合子 「秋霧」
・・・ 一九二二年の春のころ、わたしは青山の石屋の横丁をはいった横通りの竹垣のある平べったいトタン屋根の家に住んでいた。ある日、その家の古びた客間へスカンジナヴィア文学の翻訳家である宮原晃一郎さんが訪ねて来られた。そして、北海道の小樽新聞へつ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・奥に、トタン屋根の長屋が五棟並んでいて一太のは三列目の一番端れであった。どの家だってごく狭いのだが、一太母子は一層狭い場所に暮した。「お前んち、どこ?」と訊かれると、一太は、「潮田さんちの隣だよ」と躊躇せず答えた。が、それは・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・生えの灌木、雑草が、かたばかりの枸橘の生垣から見渡せた懐しいコローの絵のような松平家の廃園は、丸善のインク工場の壜置場に、裏手の一区画を貸与したことから、一九二三年九月一日の関東大震災後、最も殺風景なトタン塀を七八尺にめぐらし、何処か焼け出・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・小さい道をへだてて、バラックのトタン屋根が暑い日をてりかえし、スダレの奥から大きな声でラジオのニュースが響いている。「――して華々しい戦果をおさめました」 東京に、またこんなラジオがきこえはじめた。広島を平和都市に!長崎・・・ 宮本百合子 「いまわれわれのしなければならないこと」
・・・十分か十五分、級の違う他の子供と一緒に傍のトタン塀によりかかったり、門の中を覗いたり、地面に踞んだりして、小使が出て来るのを待っている。外から小使部屋が見えたように思う。その時分、小使は、特に朝、権威をもって楽しそうに見えた。三四人、彼方此・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
出典:青空文庫