・・・佃煮わびしく、それでも一粒もあますところ無くたべて、九銭のバットを吸う。夜がふけて、寝なければならぬ。私は、寝る。枕の下に、すさまじい車輪疾駆の叫喚。けれども、私は眠らなければならぬ。眼をつぶる。イマハ山中、イマハ浜、――童女があわれな声で・・・ 太宰治 「鴎」
・・・という題の綴方でしたけれど、私がお父さんのお使いで、バットを買いに行った時の、ほんのちょっとした事を書いたのでした。煙草屋のおばさんから、バットを五つ受取って、緑のいろばかりで淋しいから、一つお返しして、朱色の箱の煙草と換えてもらったら、お・・・ 太宰治 「千代女」
・・・実は、少しからだの工合いおかしいのでして、などと、せっぱつまって、伏目がちに、あわれっぽく告白したりなどするのだが、一日にバット五十本以上も吸い尽くして、酒、のむとなると一升くらい平気でやって、そのあとお茶漬を、三杯もかきこんで、そんな病人・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切紙巻が流行し出して今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだっかた東京の名妓の写真が一枚ずつ紙函に入れてあって、ぽん太とかおつまとかいう名前が田舎の・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ボールがゴムまり、バットには手ごろの竹片がそこらの畑の垣根から容易に略奪された。しかし、それでは物足りない連中は、母親をせびった小銭で近所の大工に頼んでいいかげんの棍棒を手にいれた。投網の錘をたたきつぶした鉛球を糸くずでたんねんに巻き固めた・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・ 五人の坑夫、――秋山も小林も混って――は、各々口にバットを喞えて、見張からの合図を待っていた。 何十年も、殆んど毎日のように、導火線に火を移す彼等であっても、その合図を待つ時には緊張しない訳には行かなかった。「恐ろしいもんだ。・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・煙草の増税で二千万円ばかり収入があったそうだが、七割はバットだってね。バットは一個について一銭だから、率は一等すけないみたいなんだが、何しろ皆が喫うもんだから。――考えたもんだね。といいながらそのひとは自分もバットの吸いがらを、唇をやきそう・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・この看守は煙草が吸いたくてたまらないでいる留置人の鼻先で、指もくぐらない細かい金網のこっち側へわざとバットを転しておいたり、今にも喫わしてくれそうに、ケースの上でトントンとやって見せたりして、猿をからかうように留置人をからかうのであった。そ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・クラバットがわりのマッフラーを襟の間に入れてしまっている。やせぎすの浅黒い顔、きっちりとしてかりこんだ髪。つれの女の子、チェックのアンサンブル黒いハンドバッグと手袋とをその男がもってやっている。このよた、ちっとも笑顔をせず。「あっちへつ・・・ 宮本百合子 「情景(秋)」
出典:青空文庫