・・・往来の両側に立っているのは大抵大きいビルディングだった。僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。僕はこう云う経験を前に・・・ 芥川竜之介 「歯車」
良吉は、重い荷物を自転車のうしろにつけて走ってきました。 その日は、あつい、あつい日でした。そこは大きなビルディングが、立ち並んでいて、自動車や、トラックや、また自転車が往来して、休むようなところもなかったのです。 そのうち、・・・ 小川未明 「隣村の子」
・・・ 私はことの意外に呆れてしまったが、果して間もなくあるビルディングの地下室にある理髪店へ行くと、金縁眼鏡をかけたそこの主人はあなたのような髪は時局柄不都合であると言って、あれよあれよと驚いている間に、私の頭を甲型か乙型か翼賛型か知らぬが・・・ 織田作之助 「髪」
・・・たゞ丸の内に聳えているMのビルディング――彼はそのビルディングを見てきていた――を肥やしてやるばっかしだ。この山の中の真ッ暗の土の底で彼等が働いている。彼等が上鉱を掘り出す程、肥って行くのは、自動車を乗りまわしたり、ゴルフに夢中になっている・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・フェルト草履は、見た眼にも優雅で、それに劇場や図書館、その他のビルディングにはいる時でも、下駄の時のように下足係の厄介にならずにすむから、私も実は一度はいてみた事があるのであるが、どうも、足の裏が草履の表の茣蓙の上で、つるつる滑っていけない・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・右手の方の空間で何かキラキラ光るものがあると思ってよく見ると、日本橋の南東側の河岸に聳え立つあるビルディングの壁面を方一尺くらいの光の板があちらこちらと這い廻っている。それが一階の右の方の窓を照らすかと思っていると急に七階の左の方へ飛んで行・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・昭和通りに二つ並んで建ちかかっている大ビルディングの鉄骨構造をねらったピントの中へ板橋あたりから来たかと思う駄馬が顔を出したり、小さな教会堂の門前へ隣のカフェの開業祝いの花輪飾りが押し立ててあったり、また日本一モダーンなショーウィンドウの前・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・打ち出の小槌かアラディンのランプの魔法の力で思いもよらぬ所にひょいひょいと大きなビルディングが突然現われる。建物は実は長い間にきわめて緩徐に造り上げらるるのであるが、その薄ぎたない見すぼらしい目隠しがある日に突然取り去られるからである。長い・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 急に暑くなった日に電車に乗って行くうちに頭がぼうっとして、今どこを通っているかという自覚もなくぼんやり窓外をながめていると、とあるビルディングの高い壁面に、たぶん夜の照明のためと思われる大きな片かなのサインが「ジンジンホー」と読まれた・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・ 三 三上戸 あるビルディングの二階にある某日本食堂へ昼飯を食いに上がった。デパートの休日でない日はそれほど込み合っていない。 室内を縦断する通路の自分とは反対側の食卓に若い会社員らしいのが三人、注文したうなぎど・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
出典:青空文庫