・・・ 二 草市 七月十三日の夕方哲学者のA君と二人で、京橋ぎわのあるビルディングの屋上で、品川沖から運ばれて来るさわやかな涼風の流れにけんぐしながら眼下に見通される銀座通りのはなやかな照明をながめた。煤煙にとざされた大都・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・こういう男がこの界隈のビルディング街の住民であろうとは思われない。いずれ芝か麻布へんから来たものとすれば、たとえば日比谷へんで多数の人のいる所で道を聞いてもよさそうなものである。それがこのさびしい夜の仲通りを、しかも東から西へ向かって歩きな・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・ とある河の橋畔に出ると大きなビルディングが両岸に聳え立って、そのあるものには窓という窓に明るい光が映っている。車が方向をかえるたびに、そういう建物が真闇い空にぐるぐる廻転するように見えた。何十年も昔、世界のどこかの果のどこかの都市で、・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・重要な官衙や公共設備のビルディングを地上百尺の代わりに地下百尺あるいは二百尺に築造し、地上は全部公園と安息所にしてしまう。これならば大地震があっても大丈夫であり、敵軍の空襲を受けても平気でいられるようにすることができるからである。この私の夢・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・は一方では進化し発展しつつ時代に適応するだけの弾性をもっている。「春雨」はビルディング街に煙り「秋風」は飛行機の翼を払うだけの包容性を失わないのである。 こう考えて来ると、和歌と俳句は純粋な短詩の精神を徹底的に突きつめたものであり、また・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・遠くの大きな銀行ビルディングの屋上に若い男が二人、昼休みと見えてブラブラしている。その一人はワイシャツ一つになって体操をしてみたり、駆け足のまねをしてみたり、ピッチャーの様子をしたりしている。もう一人は悠然としてズボンのかくしに手を入れ空を・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・ 宏壮なビルディングは空に向って声高らかに勝利を唄う。地下室の赤ん坊の墳墓は、窓から青白い呪を吐く。 サア! 行け! 一切を蹂躙して! ブルジョアジーの巨人! 私は、面会の帰りに、叩きの廊下に坐り込んだ。 ――典獄に会わ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・自分等葡萄棚の涼台で、その号外を見、話をきき、三越、丸の内の諸ビルディング 大学 宮城がみなやけた戒厳令をしいたときく。ぞっとし、さむけがし、ぼんやりした。が全部信ぜず、半分とし、とにかく四日に立つと、前きめた通りにする。吉田氏帰村し、驚き・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・ところが、醜として撮影された部分が人生の情景として、感情をもって見れば常に必しも醜ではなく、首都の美観の標本として示されたものの中には、却って東洋における後進資本主義の凡庸なオフィスビルディングの羅列のみしかないのもあった。都市の美醜、人生・・・ 宮本百合子 「日本の秋色」
・・・つとめさきでのそういう心理は、決してそのビルディングを出たときその人たちの心からふるい落されるものではないと思う。いつかしら、心の髄へまでくいこんで、その人は自分の人生態度全体に、妙にはすかいになったような、要領よさでやってゆけそうに思いち・・・ 宮本百合子 「働く婦人の新しい年」
出典:青空文庫