・・・それから腹の創口をピンで留めて、ハンケチで手を拭いて、その場を立ち退いた。誰もおれを見たものはない。おれは口笛を吹いて歩き出した。 その晩はよく寝た。子供のように愉快な夢を見て寝た。翌朝目を覚まして、鼻歌を歌いながら、起きて、鼻歌を歌い・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・平河町は自分の生れた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切紙巻が流行し出して今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだっかた東京の名妓の写真が一枚・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・しかしまたピンヘッドやサンライズを駆逐して国産を宣伝した点では一種のファシストでもあったのである。彼もたしかに時代の新人ではあった。 旧時代のハイカラ岸田吟香の洋品店へ、Sちゃんが象印の歯みがきを買いに行ったら、どう聞き違えたものか、お・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 熱海へ下る九十九折のピンヘッド曲路では車体の傾く度に乗合の村嬢の一団からけたたましい嬌声が爆発した。気圧の急変で鼓膜を圧迫されるのをかまわないでいたら、熱海海岸で車を下りてみると耳がひどく遠くなっているのに気がついた。いくら唾を呑込ん・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ すると狐がまだまるで小さいくせに銀の針のようなおひげをピンと一つひねって云いました。「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」 四郎が笑って云いました。「狐こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃ餅やろか。」・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・ 此頃は只クルクルとまるめて真黒なピンでとめて居るばかりだ。 結ったって仕様のない様な気がする。 若い年頃の人が髪をおろす時の気持が思いやられる。 ピッタリと頭の地ついた少ない髪を小さくまるめた青い顔の女が、体ばっかり着ぶく・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・張り……それはあなたの身上です。ピンと来るようなところが全く気持がいい。あれであなたから都会人の感傷性とをマイナスすれば当然ソシアリストになる人柄です……と云うと胸が悪くなりますか。」 女の掠があった時代の書簡であるから、胸が悪くなる云・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ そういうふうなことを、私どもの常識は平和とか基本的人権とかいうことの現実と結びつけて、直ぐピンと感じるような感覚を十分もっていないということが、問題だと思います。たとえば、浦和充子の問題で基本的人権がいわれる場合でも、検事がそれほどこ・・・ 宮本百合子 「浦和充子の事件に関して」
・・・これらの女はみな男よりも小股で早足に歩む、その凋れたまっすぐな体躯を薄い小さなショールで飾ってその平たい胸の上でこれをピンで留めている。みんなその頭を固く白い布で巻いて髪を引き緊めて、その上に帽子を置いている。 がたがた馬車が、跳ね返る・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・愛の眼を以て見れば弱点に気づいてもそれを刺そうという気は起らないが、嘲りの眼を以て見れば弱点をピンで刺し留めるのが唯一の興味である。それ故人に対する時自分の心の面には常に弱所を突こうとする欲望があった。またすべての愛は自愛に帰納せられた。人・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫