・・・私は眠られないのと熱つ苦しいとで、床を出ましてしばらく長火鉢の傍でマッチで煙草を喫っていましたが、外へ出て見る気になり寝衣のままフイと路地に飛び出しました。路地にはもう誰もいないのです。路地から通りに出ますと、月が傾いてちょうど愛宕山の上に・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・今度はマッチを出したが箱が半ばこわれて中身はわずかに五六本しかない。あいにくに二本すりそこなって三本目でやっと火がついた。 スパリスパリといかにもうまそうである。青い煙、白い煙、目の先に透明に光って、渦を巻いて消えゆく。「オヤ、あれ・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・おしかは寝衣のまま起きてマッチをすった。「壁が落ちたんを直さんせにどうならん!」 二 両人は、息子のために気まずい云い合いをしながらも、息子から親を思う手紙を受け取ったり、夏休みに帰った息子の顔を見たりすると、急に・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・そして世におのずから骨董の好きな人があるので、骨董を売買するいわゆる骨董屋を生じ、骨董の目ききをする人、即ち鑑定家も出来、大は博物館、美術館から、小は古郵便券、マッチの貼紙の蒐集家まで、骨董畠が世界各国都鄙到るところに開かれて存在しているよ・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・博士はマッチの火で、とろとろ辻占の紙を焙り、酔眼をかっと見ひらいて、注視しますと、はじめは、なんだか模様のようで、心もとなく思われましたが、そのうちに、だんだん明確に、古風な字体の、ひら仮名が、ありありと紙に現われました。読んでみます。・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・シンデレラ姫の物語を考えついた人は、よっぽど、お話にもなにもならないほど、不仕合せな人なのだ。マッチ売の娘の物語を考えついた人もまた、煙草のみたいが叶わず、マッチ点火しては、焔をみつめ、ほそぼそ青い焔の尾をひいて消える、また点火、涙でぼやけ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・またある物は巻煙草の朝日の包紙の一片らしかった。マッチのペーパーや広告の散らし紙や、女の子のおもちゃにするおすべ紙や、あらゆるそう云った色刷のどれかを想い出させるような片々が見出されて来た。微細な断片が想像の力で補充されて頭の中には色々な大・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・この点において骨董趣味はまたいわゆる蒐集趣味と共有な点がある。マッチの貼紙や切手を集めあるいはボタンを集め、達磨を集め、甚だしきは蜜柑の皮を蒐集するがごとき、これらは必ずしも時代の新旧とは関係はないが、珍しいものを集めて自ら楽しみ人に誇ると・・・ 寺田寅彦 「科学上の骨董趣味と温故知新」
・・・三吉はわざとマッチを借りたりして妨害するが、深水の演説口調はなかなかやまない。そのうち、こんどは急に声の調子まで変えていった。「――しかし、つまるところはですナ、ご両人でよろしくやってもらうよりないんだよ。わしはその、月下氷人でネ、これ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの広い座敷には、寝台、椅子、卓子を据え、壁には壁紙、窓には窓掛、畳には敷物を敷き、天井の電燈にも装飾を施し、テーブルの上にはマッチ灰皿の外に、『スタア』という雑誌のよごれたのが一冊載・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
出典:青空文庫