・・・ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、貴方がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」「可哀そうに、これでも少しは信心気のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日にも――」「信・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・だがまさか――まさかその麦酒のコップへ、あの婆が舌を入れて、一口頂戴したって次第でもなかろう。それならかまわないから、干してしまい給え。」――こう云う具合に泰さんは、いろいろ沈んだ相手の気を引き立てようとしましたが、新蔵は益々ふさぐ一方で、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ ――ああ、一口、水がほしい―― 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。 何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。 ……その冷く快・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・で、般若は一挺の斧を提げ、天狗は注連結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に一口の太刀を佩く。 中に荒縄の太いので、笈摺めかいて、灯した角行燈を荷ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、媚かしき女の祇園囃子などに斉しく、特に夜に入っ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
一 朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆の汁で。……燗をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。…… いい天気で、暖かかった・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・家のお母さんは民子が未だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣いて泣きぬいた。一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、とばかりいって居て、市川へ置いたではどうなるか知れぬという訣から、昨日車で家へ送られてきた・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・細君は総てをそこに置いたまま去って終う、一口に云えば食客の待遇である。予はまさかに怒る訳にもゆかない、食わぬということも出来かねた。 予が食事の済んだ頃岡村はやってきた。岡村の顔を見れば、それほど憎らしい顔もして居らぬ。心あって人を疎ま・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・うちに一口だけ噛らせて」「一口だけ言わんと、ぎょうさん食べ!」 ほろりとした声になった。女の子は夢中になって、ガツガツと食べると、「おっちゃん、うちミネちゃん言うねん。年は九つ」 いじらしい許りの自己紹介だった。「ふーん・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・にもずり落ちそうな、ついでに水洟も落ちそうな、泣くとき紐でこしらえた輪を薄い耳の肉から外して、硝子のくもりを太短い親指の先でこすって、はれぼったい瞼をちょっと動かす、――そんな仕種まで想像される、――一口に言えば爺むさい掛け方、いいえ、そん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
出典:青空文庫