・・・「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例の圧しつけるような言振で問うた。「一口には言えない」「まさか狼の丸焼で一杯飲みたいという洒落でもなかろう?」「まずそんなことです。……実は僕、或少女に懸想したことがあります」と・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・』 時田はほとんど一口も入れないで黙って聴いていたが、江藤がやっとやめたので、『その百姓家に娘はいなかったか、』と真顔で問うた。『アアいたいた八歳ばかしの。』何心なく江藤は答える。『そいつは惜しかった十六、七で別品でモデルに・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・「何故チュウて問われると困まるが、一口に言うと先生は苦労人だ。それで居て面白ろいところがあって優しいところがあるだ。先生とこう飲んでいると私でも四十年も前の情話でも為てみたくなる、先生なら黙って聴いてくれそうに思われるだ。島中先生を好ん・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・物質的清貧の中で精神的仕事に従うというようなことは夢にも考えられなくなる。一口にいえば、学生時代の汚れた快楽の習慣は必ず精神的薄弱を結果するものだ。そして将来社会的に劣弱者となって、自らが求めた快楽さえも得られないという、あわれむべき状態に・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・――と、この時今まで一口も云わずにいた上田のお母アが、皆が吃驚するような大きな声で一気にしゃべり出した。「んだとも! なア大川のおかみさん! おれ何時か云ってやろう、云ってやろうと思って待っていたんだが、お前さんとこの働き手や俺ンとこの一人・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・建増した奥の部屋に小さなチャブ台を控えて、高瀬は学士とさしむかいに坐って見た。一口やるだけの物がそこへ並んだ。 学士はこの家の子のことなどを親達に尋ねながら、手酌で始めた。「高瀬君、まあ話して行って下さいナ。ここは心易い家でしてネ、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ただ、その仲間と云うのも、どんな風な仲間と云ってよいのか、一口で云うのは難しいことでした。何故なら、彼女のその仲間は、話が出来ました。彼に話しが出来ることが、却って二人の間にちっとも共通な言葉をなくして仕舞っていたからです。 その仲間と・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・かず枝は、サイダーを一口のんで吐いた。 暗くなるまで、ふたりでいた。かず枝が、やっとどうにか歩けるようになって、ふたりこっそり杉林を出た。かず枝を自動車に乗せて谷川にやってから、嘉七は、ひとりで汽車で東京に帰った。 あとは、かず枝の・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・少しでも小説を読み馴れている人ならば、すでに、ここまで読んだだけでこの小説の描写の、どこかしら異様なものに、気づいたことと思います。一口で言えば、「冷淡さ」であります。失敬なくらいの、「そっけなさ」であります。何に対して失敬なのであるか、と・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・あくる朝、私たちはかえりの自動車のなかで、黙っていた。一口でも、ものを言えば殴り合いになりそうな気まずさ。自動車が浅草の雑沓のなかにまぎれこみ、私たちもただの人の気楽さをようやく感じて来たころ、馬場はまじめに呟いた。「ゆうべ女のひとがね・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫