・・・ 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みを量るように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登城させてはくれまいか。」 宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。「それも、たった一度じ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……が・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ とややありて切なげにいいし一句にさえ、呼吸は三たびぞ途絶えたる。昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空蒼く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや失せむと、見る目も危うく窶れしかな。「切のうござんすか。」 ミ・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・一行、一句にも心を捕えられ、恍惚として、耽読せしむるものは、即ち知己であり、その著者と向志を同じくするがためです。眼だけは、文字の上に止っても、頭で他のことを空想するように、感ずる興味の乏しいものは、その書物と読む者の間が、畢竟、無関係に置・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・この一句には坂田でなければ言えないという個性的な影像があり、そして坂田という人の一生を宿命的に象徴しているともいえよう。苦労を掛けた糟糠の妻は「阿呆な将棋をさしなはんなや」という言葉を遺言にして死に、娘は男を作って駈落ちし、そして、一生一代・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・からですが、高木卓氏が終りが弱いといわれるのも、あなたが題が弱いといわれるのも、つまりは結びの一句が「坂田は急ににこにこした顔になった。そうして雨の音を聞いた」となっていることをいわれたのであろうと思います。どういう雨かとのお問いですが、は・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
・・・ 耕吉は最後の一句に止めを刺されたような気がして、恐縮しきって、外へ出た。 銀座の方へ廻ると言って電車に乗った芳本と別れて、耕吉は風呂敷包を右に左に持替えて、麹町の通りを四谷見附まで歩いた。秋晴の好天気で、街にはもう御大典の装飾がで・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・べからず候なお細々のことは嫂かき添え申すべく候右認め候て後母様の仰せにて仏壇に燈ささげ候えば私が手に扶けられて母様は床の上にすわりたまいこの遺言父の霊にも告げてはと読み上げたもう御声悲しく一句読みては涙ぬぐい一句読みてはむせびた・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・その最後の一句で又た皆がどっと笑った。「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたので漸々静まった。「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先故郷に帰り、親族に托してあった山林田畑を悉く売り飛ばし、その資・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫