・・・だって、あれからまだ一度も来たのは知らねえもの」「本当か?」「ああ、本当に!」「そんなはずはねえがな」と若衆は小首を傾げたが、思い出したように盤台をゴシゴシ。 十分ばかりもゴシゴシやったと思うと、またもや、「三公」「三公・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・近代小説という大海に注ぐには、心境小説的という小河は、一度主流の中へ吸い込まれてしまう必要があるのだ。例えば志賀直哉の小説は、小説の要素としての完成を示したかも知れないが、小説の可能性は展開しなかった。このことは、小説というものについて、こ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・此日隣のは弥々浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度光景を窺おうとして、ヒョッと眼を開いて視て、慄然とした。もう顔の痕迹もない。骨を離れて流れて了ったのだ。無気味にゲタと笑いかけて其儘固まって了ったらしい頬桁の、その厭らしさ浅・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・私たちの生活のことを知り抜いている和尚さんたちには、こうした結末の一度は来ることに平常から気がついているのだった。行李の中には私たち共用の空気銃、Fが手製の弓を引くため買ってきた二本の矢、夏じゅう寺内のK院の古池で鮒を釣って遊んだ継ぎ竿、腰・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・医師の言われるには、まだ足に浮腫が来ていないようだから大丈夫だが、若し浮腫がくればもう永くは持たないと言うお話で、一度よく脚を見てあげたいのだが、病人が気にするだろうと思ってそれが出来にくい、然しいずれは浮腫だすだろうと言われました。これを・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。これは残酷な空想だろうか? 否。まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆力によるのである。私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 飯ができるや、まず弁公はその日の弁当、親父と自分との一度分をこしらえる。終わって二人は朝飯を食いながら親父は低い声で、「この若者はよっぽどからだを痛めているようだ。きょうは一日そっとしておいて仕事を休ますほうがよかろう。」 弁・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・童貞が去るとともに青春は去るというも過言ではない。一度女を知った青年は娘に対して、至醇なる憧憬を発し得ない。その青春の夢はもはや浄らかであり得ない。肉体的快楽をたましいから独立に心に表象するという実に悲しむべき習癖をつけられるのだ。性交を伴・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・しかし一度発覚され、知れ渡った限りは、役目として、それを取調べなければならなかった。犯人をせんさくし出さなければ、役目がつとまらなかった。役目がつとまらないということは、自分の進級に関係し、頸に関係する重大なこと柄だった。 兵卒は、初年・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・徳川時代、諸大名の御前で細工事ご覧に入れた際、一度でも何の某があやまちをしてご不興を蒙ったなどということは聞いたことが無い。君はどう思う。わかりますか。」 これには若崎はまた驚かされた。「一度もあやまちは無かった!」「さればサ。・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫