・・・夫婦は一心同体やぜ」 子供にいいきかすような口調だった。「そんならなぜお母はんに高利の金を貸すんです?」 と、豹一が言うと、「わいに文句あるんやったら出て行ってもらおう」 母親もいっしょにと思ったが、豹一はひとりで飛びだ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・またある一つの窓ではレシーヴァを耳に当てて一心にラジオを聴いている人の姿が見えた。その一心な姿を見ていると、彼自身の耳の中でもそのラジオの小さい音がきこえて来るようにさえ思われるのだった。 彼が先の夜、酔っていた青年に向かって、窓のなか・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・しかし吉田にとって別にそれは珍しいことではなかったし、無躾けなことを聞く人間もあるものだとは思いながらも、その女の一心に吉田の顔を見つめるなんとなく知性を欠いた顔付きから、その言葉の次にまだ何か人生の大事件でも飛び出すのではないかという気持・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・彼は一心になっているので自分の近いたのに気もつかぬらしかった。 おやおや、彼奴が来ている、どうして彼奴は自分の先へ先へと廻わるだろう、忌ま忌ましい奴だと大に癪に触ったが、さりとて引返えすのはなお慊だし、如何してくれようと、そのまま突立っ・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・もちろんこれは君の性分にもよるだろう、しかしそれはどちらでもいい、ともかく一心専念にやっているという事が僕は君の今日成功している所以だと信ずる、成功とも! 教育家としてこの上の成功はないサ。父兄からは十二分の信用と尊敬とを得て何か込み入った・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ただわずかに人の真心――誠というものの一切に超越して霊力あるものということを思い得て、「一心の誠というものは、それほどまでに強いものでしょうかナア。」と真顔になって尋ねた。中村はニヤリと笑った。「誠はもとより尊い。しかし準備もま・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・妻は興有りげに一心になって聞いている。庭には梧桐を動かしてそよそよと渡る風が、ごくごく静穏な合の手を弾いている。「頭がそろそろ禿げかかってこんなになってはおれも敵わない。過般も宴会の席で頓狂な雛妓めが、あなたのお頭顱とかけてお恰好の紅絹・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・「まあ一心になっていらっしゃるんだわ」という。 ちょうど一と区切りついたから向きなおる。藤さんは少し離れて膝を突いている。「お召し物も来たんでしょう?――では早くお着換えなさいましな。女の着物なんか召しておかしいわ」と微笑む。自・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ けれども、やがて私も、日本酒を飲む事に馴れたが、しかし、それは芸者遊びなどしている時に、芸者にあなどられたくない一心から、にがいにがいと思いつつ、チビチビやって、そうして必ず、すっくと立って、風の如く御不浄に走り行き、涙を流して吐いて・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰って来る二十の娘を笑わずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さい駅の名は、わざとお教え申しま・・・ 太宰治 「待つ」
出典:青空文庫