・・・ただもう一息という肝心のところをいつでも中途半端で通り抜けてしまうのが物足りなく思われる。たとえば最後の場面でお染が姉夫婦を見送ってから急に傷の痛みを感じてベンチに腰をかけるとき三味線がばたりと倒れるその音だけを聞かせるが、ただそれだけであ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・と語り終って盃に盛る苦き酒を一息に飲み干して虹の如き気を吹く。妹は立ってわが室に入る。 花に戯むるる蝶のひるがえるを見れば、春に憂ありとは天下を挙げて知らぬ。去れど冷やかに日落ちて、月さえ闇に隠るる宵を思え。――ふる露のしげきを思え。―・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻った。「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。「へべれけになって暴れられて堪るもんですか、子供たちをどうしま・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・と、平田はしばらく考え、ぐッと一息に飲み乾した猪口を小万にさし、「どうだい、酔ッてもいいかい」「そうさなア。君まで僕を困らせるんじゃアないか」と、西宮は小万を見て笑いながら、「何だ、飲めもしないくせに。管を巻かれちゃア、旦那様がまたお困・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ら軽らかに箱根街道のぼり行けば鵯の声左右にかしましく 我なりを見かけて鵯の鳴くらしき 色鳥の声をそろへて渡るげな 秋の雲滝をはなれて山の上 病みつかれたる身の一足のぼりては一息ほっとつき一坂のぼりては巌端に尻をや・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・と蜘蛛はただ一息に、かげろうを食い殺してしまいました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて「小しゃくなことを言うまいぞ。」とふざけたように歌いながら又糸をはきました。 網は三まわり大きくなって、もう・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・ 目を瞑り一息に砂丘の裾までころがった。気が遠くなるような気持であった。海が上の方に見えるどころか、誰だって自分の瞼の裏が太陽に透けてどんなに赤いかそれだけ見るのがやっとなのだ。が、こわいような、自分の身体がどこで止るか、止るまで分らず・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ こう云って私は杯を一息に干した。 森鴎外 「余興」
・・・――逃がしはせぬぞ、というかのように、妻の母は娘の苦しむ一息ごとに、顔を顰めて一緒に息を吐き出した。彼は時々、吸入器の口を妻の口の上から脱してみた。すると彼女は絶えだえな呼吸をして苦しんだ。 ――いよいよだ。と彼は思った。 もし吸入・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・楽しき家庭があればこそ朝より夕まで一息に働いた。暖かき家庭には愛が充つ。愛の充つ所にはすべての徳がある。宇宙の第一者に意識してさらに真善美に突進するの勇を振るい起こす。この境地は現世の理想郷である。ディッキンスのクリスマスカロルはおもしろい・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫