・・・ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と一抹の涼味を落として行くような気がする。これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子は外からはいる黴菌を食い止め、またすでに付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。 寒中には着物を後ろ前に着て背筋・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・と云って、底に一抹の軽い非難を含んだような讃辞を頂戴したことがあった。この奥さんの寸言の深い意味に思い当る次第である。 屠蘇と吸物が出る。この屠蘇の盃が往々甚だしく多量の塵埃を被っていることがある。尤も屠蘇そのものが既に塵埃の集塊のよう・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・とかくするうち東の空白み渡りて茜の一抹と共に星の光まばらになり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。急いで朝飯かき込み岡崎氏と停車場に馳けつくれば用捨気もなき汽車進行を始めて吐き出す煙の音乗り遅れし吾等を嘲るがごとし。珍しき・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・たまたま記憶の眼に触れる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けの付かないただ一抹の灰色の波線を描いているに過ぎない。その地平線の彼方には活動していた日の目立った出来事の峰々が透明な空気を通して手に取るように見えた。 それがために、最・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ただ近来少数ではあるがまじめで立派な連句に関する研究的の著書が現われるのは暗夜に一抹の曙光を見るような気がして喜ばしい。しかし結局連句は音楽である。音楽は演奏され聞かれるべきものである。連句の音楽はもう少し広く日本人の間に演奏され享楽されて・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・ 我が輩ひと通りの考にては、この言はまったく俗吏論にして、学者の心事を知らざるものなりと一抹し去らんとしたれども、また退いて再考すれば、学者先生の中にもずいぶん俗なる者なきに非ず、あるいは稀には何官・何等出仕の栄をもって得々たる者もあら・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・そのユーモアの網野さんが生粋の都会人であることや、細かい神経を持っていることや、一抹の淋しさを漂わした感情の所有者であることなどが直に窺われる。都会人らしい――それも町家の――心持に教養の加った気分で生活している間に、ひょい、ひょいと人生の・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・となって盛名をうたわれ、幾何もなくアメリカに去った田村俊子氏の生活経緯を見て居られることもあって、女性と芸術生活との問題については、それが特に日本の社会での実際となった場合、進歩的な見解の半面にいつも一抹の疑念、不確実さを感じていられたので・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・のなかではそれでも一抹の諧謔的笑いが響いているが、「三四郎」の美禰子と三四郎との感情交錯を経て「道草」の健三とその妻との内的いきさつに進むと、漱石の態度は女は度し難いと男の知的優越に立って揶揄しているどころではなくなって来ている。「行人」の・・・ 宮本百合子 「漱石の「行人」について」
・・・経済闘争だけで終ったとき、人々の心に湧いた人間としての物足りなさ、やったことが間違っていないことはたしかでも、なお一抹のものたりない思い、充実しない感じがあって、こういう声を生んだとしか思えません。それは労働者の正当な雄々しさをかげらせる気・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
出典:青空文庫