・・・道端に乞食が一人しゃがんで頻りに叩頭いていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。つくつくほうしが八釜しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・現に私の知っている者のうちで、一年以上も下宿に立て籠って、いまだに下宿料を一文も払わないで茫然としている男がある。もっとも下宿の方でも信用しているから貸しておくし、当人もどうかなるだろうと思って安心はしているらしいが国家の経済からいうとずい・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・という一文を読んだ。そしてそれが如何にもよく私の今日の心持を言い表しおるものだと痛く同感した。回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・遊ばれるだけにして、どうか置いて下さい。一文も残らないでもいい。今晩どッかへ泊るのに、三十銭か四十銭も残れば結構だが……。何、残らないでもいい。ねえ、吉里さん、そうしといて下さいな」と、善吉は顔を少し赧めながらしかも思い入ッた体である。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・わたくしおあしなんか一文もないのよ。けども少したてばあたしの頭に亜片ができるのよ。それをみんなあげることにしてはいけなくって。」「ほう。亜片かね。あんまり間には合わないけれどもとにかくその薬はわしの方では要るんでね。よし。いかにも承知し・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
・・・いくら可哀想と思い血の涙をこぼしても、金を出さなければ医者のよべないブルジョア社会で、一文なしならどうしましょう。医者にかけられずに子を死なせた親を情なしと云ったら口はさけます。 ブルジョア社会では、親が金の余裕をもってその子が幸福にな・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・しかしこれまで私の家に寄食したいと云って来た人に、一文の貯もなかったことは幾らでも有る。この側から見ればF君は平凡な徼幸者である。そう云う徼幸者を遇する道は、私のためには熟路である。私はこの熟路を行くに、奇蹟たる他の一面を顧慮して、多少の手・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・ ある時ツァウォツキイの家で、また銭が一文もなくなった。ツァウォツキイはそれを恥ずかしく思った。そしてあの小さい綺麗な女房がまたパンの皮を晩食にするかと思うと、気の毒でならなかった。ところがその心持を女房に知らせたくないので、女房をどな・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・鐚銭一文出しやがらんでお前、代りに暇出しやがって。」「そうか、道理で顔が青いって。」「そうやろが。」「そしてこれから何処行きや?」「何処って、俺に行くとこあるものか。母屋に厄介になろうと思うて帰って来たのやが、秋公がお前、南・・・ 横光利一 「南北」
・・・特に人を動かすのは浅川巧氏を惜しむ一文であるが著者はここに驚嘆すべき一人の偉人の姿をおのずからにして描き出している。描かれたのはあくまでもこの敬服すべき山林技師であって著者自身ではない。しかも我々はこの一文において直接に著者自身と語り合う思・・・ 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
出典:青空文庫