・・・ 前夜、福井に一泊して、その朝六つ橋、麻生津を、まだ山かつらに月影を結ぶ頃、霧の中を俥で過ぎて、九時頃武生に着いたのであった。――誰もいう……此処は水の美しい、女のきれいな処である。柳屋の柳の陰に、門走る谿河の流に立つ姿は、まだ朝霧をそ・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・すなわち行きて一泊して、就褥の後に御注意あれ。 間広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森として、凄風一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然たる足音あり寂寞を破り近着き来りて、黒きもの颯とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うあらむ。その時・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩尻から分岐点で、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが緩んでちと辻褄が・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・、根津や、鶯谷では見られない、田舎には珍らしい、佳い女が居るからと、度々聞かされたのでありますが、ただ、佳い女が居るとばかりではない、それが篠田とは浅からぬ関係があるように思われまする、小宮山はどの道一泊するものを、乾燥無味な旅籠屋に寝るよ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 昨年の春私を訪ねてきて一泊して行った従兄のKは、十二月に東京で死んで骨になって郷里に帰った。今年の春伯母といっしょにはるばるとやってきて一泊して行った義母は、夏には両眼失明の上に惨めな死方をした。もう一人の従弟のT君はこの春突然やって・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・かの君、大磯に一泊して明日は鎌倉まで引っ返しかしこにて両三日遊びたき願いに候えど――。われ、そは御楽しみの事なるべし、大磯鎌倉は始めてのお越しにや。かの君さりげなく、妹には始めての遊びになん。ああこの時、わが目と二郎の目とは電のごとく貴嬢が・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・その日はまだ日が高いうちに立野という宿場まで歩いてそこに一泊した。次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山の白煙を目がけて霜を踏み桟橋を渡り、路を間違えたりしてようやく日中時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・シベリアへ来るため、乗船した前夜、敦賀で一泊した。その晩のことを思い出したりした。その港町がなつかしく如何にもかゞやかしく思い出された。何年間、海を見ないことか! 二人は、シベリアへ来てから、もう三年以上、いや五年にもなるような気がしていた・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・ 八年後、いまは姉にお金をねだることも出来ず、故郷との音信も不通となり、貧しい痩せた一人の作家でしかない私は、先日、やっと少しまとまった金が出来て、家内と、家内の母と、妹を連れて伊豆の方へ一泊旅行に出かけました。清水で降りて、三保へ行き・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・私はそこに一泊する事になっていた。北さんも、そこに一泊してそうして翌る日から私と二人で、浅虫温泉やら十和田湖などあちこち遊び廻ろうというのが、私たちの東京を立つ時からの計画であったのだが、けさほど東京の北さんのお宅から金木の家へ具合いの悪い・・・ 太宰治 「帰去来」
出典:青空文庫