・・・そのような事でさえ彼の血管へ一滴の毒液を注射するくらいな効果があった。二人が帰って後にぼんやり机の前にすわったきりで、その事ばかり考えていた。そういう時には彼の口中はすっかりかわき上がって、手の指がふるえていた。そうして目立って食欲が減退す・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・静かな雨が音もなく芝生に落ちて吸い込まれているのを見ていると、ほんとうに天界の甘露を含んだ一滴一滴を、数限りもない若芽が、その葉脈の一つ一つを歓喜に波打たせながら、息もつかずに飲み干しているような気がする。 雨に曇りに、午前に午後に芝生・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・せめて死骸になったら一滴の涙位は持っても宜いではないか。それにあの執念な追窮しざまはどうだ。死骸の引取り、会葬者の数にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押込めて、死体の解剖すら大学ではさせぬ。できることならさぞ十二人の霊魂も殺してし・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・同時に一滴の熱き涙はエレーンの冷たき頬の上に落つる。 十三人の騎士は目と目を見合せた。 夏目漱石 「薤露行」
・・・彼は一片の麺麭も食わず一滴の水さえ飲まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それで戦が出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身もそう思っている。ウィリアムは幻影の盾を翳して戦う機会があ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・そして吐息は彼女の肩から各々が最後の一滴であるように、搾り出されるのであった。 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて、未だ彼女がいくらか、物を食べられる時に嘔吐したらしい汚物が、黒い血痕と共にグチャグチャに散ばっていた。髪毛がそれで固められ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・――一滴もいけなかった私が酒を飲み出す、子供の時には軽薄な江戸ッ児風に染まって、近所の女のあとなんか追廻したが、中年になって真面目になったその私が再び女に手を出す――全く獣的生活に落ちて、終には盗賊だって関わないとまで思った。いや、真実なん・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・じっと心を守り、余分な精力と注意は一滴も他に浪費しないように、念を入れ心をあつめて、ペンならペン、絵筆なら絵筆を執るべきでしょう。 恋愛に対してもそうであろうと思われます。決して卑しく求むべきではないし、最上とか何とか先入的な価値の概念・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・けれども、何の為に、幾千万の人間が、まるで世界から見すてられ、一滴の愛もない飢餓の裡に犬死にをしなければならないのか。 世界は、今真剣になるべき時だ。人類の精神の流れが、根柢まで破壊された旧友朋の上に、新たな、健かな、生存の意義を見出そ・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
・・・苦患に打ち向こうて、苦患と取り組んで、沈黙、静寂、悲痛の内に、苦患の最後の一滴まで嘗め尽くす。この態度のみが耐忍の名に価するだろう。 苦患に背を向け、感傷的に慟哭し、饒舌に告白する。かくしてもまた苦患の終わりを経験することはできる。しか・・・ 和辻哲郎 「ベエトォフェンの面」
出典:青空文庫