・・・私は屋敷中で一番早く夜になるのは、古井戸のある彼の崖下……否、夜は古井戸の其底から湧出るのではないかと云う感じが、久しい後まで私の心を去らなかった。 私は小学校へ行くほどの年齢になっても、伝通院の縁日で、からくりの画看板に見る皿屋敷のお・・・ 永井荷風 「狐」
・・・天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣のごとき形ちをしてその一番高い背筋を通して硝子張りの明り取りが着いている。このアチックに洩れて来る光線は皆頭の上から真直に這入る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に遮るも・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
僕は昔から「人嫌い」「交際嫌い」で通って居た。しかしこれには色々な事情があったのである。もちろんその事情の第一番は、僕の孤独癖や独居癖やにもとづいて居り、全く先天的気質の問題だが、他にそれを余儀なくさせるところの、環境的な・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・それに此女だって性慾の満足のためには、屍姦よりはいいのだ。何と云っても未だ体温を保っているんだからな。それに一番困ったことには、私が船員で、若いと来てるもんだから、いつでもグーグー喉を鳴らしてるってことだ。だから私は「好きなように」すること・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・吉里は一番後れて、階段を踏むのも危険いほど力なさそうに見えた。「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮んだようで、上り框までは行かれなかッた。「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然るに、生れて第一番の初学に五十韻とは、前後の勘弁なきものというべし。この事は七、八年前より余が喋々説弁する所なれども、かつてこれに頓着する者なし。近来はほとんど説弁にも草臥たれども、なおこれを忘るること能わず。最後の一発としてここにこれを・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・こいつ今の間にどうにか禦いで置かなきゃいかんわい……それにはロシア語が一番に必要だ。と、まあ、こんな考からして外国語学校の露語科に入学することとなった。 で、文学物を見るようになったのは、語学校へ入って、右のような一種の帝国主義に浮かさ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
脚本作者ピエエル・オオビュルナンの給仕クレマンが、主人の書斎の戸を大切そうに開いた。ちょうど堂守が寺院の扉を開くような工合である。そして郵便物を載せた銀盤を卓の一番端の処へ、注意してそっと置いた。この銀盤は偶然だが、実際あ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・貴方の心を繋ぐようなものを持っていませんでした。貴方の一番終いに下すったあの恐ろしいお手紙が届いた時は、わたしは死のうと思いました。それを今打明けて申すのは、貴方に苦しい思いをさせようと思って申すのではございません。それからわたしは貴方に最・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・と生れ変った、ところが信州は山国で肴などという者はないので、この犬は姨捨山へ往て、山に捨てられたのを喰うて生きて居るというような浅ましい境涯であった、しかるに八十八人目の姨を喰うてしもうた時ふと夕方の一番星の光を見て悟る所があって、犬の分際・・・ 正岡子規 「犬」
出典:青空文庫