・・・と一ばん若いお客が、呶鳴るように言いまして、「ねえさん、おれは惚れた。一目惚れだ。が、しかし、お前は、子持ちだな?」「いいえ」と奥から、おかみさんは、坊やを抱いて出て来て、「これは、こんど私どもが親戚からもらって来た子ですの。これでもう・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・熊さんだと一目で知れた。小倉の服に柿色の股引は外にはない。よべの嵐に吹き寄せられた板片木片を拾い集めているのである。自分は行くともなく其方へ歩み寄った。いつもの通りの銅色の顔をして無心に藻草の中をあさっている。顔には憂愁の影も見えぬ。自分が・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲らしたところもあるが、大方は生垣や竹垣を結んだ家が多いので、道行く人の目にも庭や畠に咲く花が一目に見わたされる。そして垣の根方や道のほとりには小笹や雑草が繁り放題に繁っていて、その中には・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ これらの条項を机の上に貼り附けるのは、学校の教師が、学校の課目全体を承知の上で、自己の受持に当るようなもので、自他の関係を明かにして、文学の全体を一目に見渡すと同時に、自己の立脚地を知るの便宜になる。今の評家はこの便宜を認めていない。・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・数日前から夜ごとに来て寝る穴が、幸にまだ誰にも手を附けられずにいると云うことが、ただ一目見て分かった。古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。 雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろになった上着と、だぶだぶして体に合・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ この男がどんな人物だと云うことは、一目見れば知れる。態度はいかにも威厳があって、自信力に富んでいるらしい。顔は賢そうで、煎じ詰めたようで、やや疲労の気色を帯びている。そう云う態度や顔に適っているのはこの男の周囲で、隅から隅まで一定の様・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子を下りて来て、自分の行李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。自分の座というのは自分が足を伸ばして寝るだけの広さで、同業の新聞記・・・ 正岡子規 「病」
・・・まっ青な小樽湾が一目だ。軍艦が入っているので海軍には旗も立っている。時間があれば見せるのだがと武田先生が云った。ベンチへ座ってやすんでいると赤い蟹をゆでたのを売りに来る。何だか怖いようだ。よくあんなの食べるものだ。 *・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 矢張り笑顔のまま、大きな女のひとはくるりと、私共の方に背を向けた。一目見、自分は大声で泣き出した。背中に小猿をくくり付けでもしたように、赤い着物の女の子が、小さく、かーんと強張って背負われて居るのだ。「河に身を投げたのだ」と誰・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・忠利はそれを一目見て、しばらく瞑目していた。それから忠利が「足がだるい」と言った。長十郎は掻巻の裾をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。「長十郎お願いがござりまする」「なんじゃ」・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫