・・・ 少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音声におびえていたのだから、もとより夢か現かの差別は判らないのである。外は明るくなって夜は明けて来たけれど、雨は夜の明けたに何の関係も無いごとく降り続いている。夜を降り通・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・四十時間一睡もせずに書き続けた直後の疲労がまず眼に来ているのだった。眠かった。―― 睡魔と闘うくらい苦しいものはない。二晩も寝ずに昼夜打っ通しの仕事を続けていると、もう新吉には睡眠以外の何の欲望もなかった。情欲も食欲も。富も名声も権勢も・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・一と晩、一睡もしなかった。 十二月一日に入営する。姫路へは、その前日に着いた。しょぼ/\雨が降っていた。宿の傘を一本借りて、雨の中をびしょ/\歩きまわった。丁度、雪が積っているように白い、白鷺城を見上げながら、聯隊の前の道を歩いた。私の・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・ 保釈になった最初の晩、疲れるといけないと云うので、早く寝ることにしたのだが、田口はとうとう一睡もしないで、朝まで色んなことをしゃべり通してしまった。自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなか・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・は、夜明け近くまで騒いで、奥さまも無理にお酒を飲まされ、しらじらと夜の明けた頃に、こんどは、こたつを真中にして、みんなで雑魚寝という事になり、奥さまも無理にその雑魚寝の中に参加させられ、奥さまはきっと一睡も出来なかったでしょうが、他の連中は・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・僕が君を侮じょくしたと君は考えたらしいけれど兎に角、僕は君のあの原稿の極端なる軽べつにやられて昨夜は殆んど一睡もしなかった。先日のあの僕の手紙のことに関する誤解は一掃してほしい。そして、原稿も書き直してほしい。これはお願いだ。君はああいうこ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・この夜、一睡もせず。朝になり、ようやく解決を得たり。解決に曰く、時間の問題さ。かれら二十七歳の冬は、云々。へんに考えつめると、いつも、こんな解決也。 いっそ、いまは記者諸兄と炉をかこみ、ジャアナルということの悲しさについて語らん乎。・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ ところで、十三日は母の命日故、一睡もしないうち林町へ法事に出かけ前後一週間、眠ったのかおきたのか分らぬ勢で仕事をしたためすっかり疲れ、未だに体がすこし参って居ります。 手紙は大変御無沙汰になって日づけを見ると、殆ど一ヵ月近くかかな・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・もう彼にとって、長い間の虚無は、一睡の夢のように吹き飛んだ。 彼は深い呼吸をすると、快活に妻のベッドの傍へ寄っていった。「おい、お前は死ぬことを考えているんだろう。」 妻は彼を見て頷いた。「だが、人間は死ぬものじゃないんだ。・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫