・・・唯これ一瞬の事で前後はなかった。 屋外は雨の音、ザアッ。 大噐晩成先生はこれだけの談を親しい友人に告げた。病気はすべて治った。が、再び学窓にその人は見われなかった。山間水涯に姓名を埋めて、平凡人となり了するつもりに料簡をつけ・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・ 焔は暗くなり、それから身悶えするように左右にうごいて、一瞬大きく、あかるくなり、それから、じじと音を立てて、みるみる小さくいじけて行って、消えた。 しらじらと夜が明けていたのである。 部屋は薄明るく、もはや、くらやみではなかっ・・・ 太宰治 「朝」
・・・サンボリスムは、枯死の一瞬前の美しい花であった。ばかどもは、この神棚の下で殉死した。私もまた、おくればせながら、この神棚の下で凍死した。死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・ 兄は一瞬、へんな顔をした。とたんに、群集のバンザイが、部屋の障子が破れるばかりに強く響いた。 皇太子殿下、昭和八年十二月二十三日御誕生。その、国を挙げてのよろこびの日に、私ひとりは、先刻から兄に叱られ、私は二重に悲しく、やりきれな・・・ 太宰治 「一燈」
・・・の一年はこの世界の十年に当たるというような空想や、五十年の人生を刹那に縮めて嘗め尽くすというような言葉の意味を、つまり「このエントロピーの時計で測った時の経過と普通の時計と比べて一年と十年また五十年と一瞬とに当たる」と説明すればよいかもしれ・・・ 寺田寅彦 「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」
・・・ 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・いつでも見える状態であるからして、そのいずれの一瞬間を截ち切ってもその断面は長い全部を代表する事ができる、語を換えて云えば、十年二十年の状態を一瞬の間につづめたもの、煮つめたもの、煎じつめたものを脳裏に呼び起すことができると。そこでこの煮つ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中に、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・そして彼をレンズにでも収めるように、一瞬にしてとり入れた。「喧嘩にゃならねえよ。だが、お前なんか向うの二等車に行けよ。その方が楽に寝られるぜ。寒くもねえのに羽織なんか着てる位だから。その羽織だって、十円位はかかるだろう。それよりゃ、二等・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・(とうとうまぎれ込んだ、人の世界私は胸を躍らせながら斯う思いました。 天人はまっすぐに翔けているのでした。(一瞬百由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動いていない。少しも動かずに移私は斯うつぶやくように考えました。 天人・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
出典:青空文庫