・・・紺絣の単衣を着ていた。僕もなんだかなつかしくて、彼の痩せた肩にもたれかかるようにして部屋へはいったのである。部屋のまんなかにちゃぶだいが具えられ、卓のうえには、一ダアスほどのビイル瓶とコップが二つ置かれていた。「不思議です。きょうは来る・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・それからまた、眼底網膜の視像の持続性を利用するという点ではゾートロープやソーマトロープのようなおもちゃと似た点もあるが、しかしこれらのものと現在の映画――無声映画だけ考えても――との間の差別は単なる進化段階の差だけでなくてかなり本質的な差で・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・物理化学の諸般の方則はもちろん、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺激する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知っ・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・ するとお前さん、大将が私の前までおいでなすって、お前にゃ単た一人の子息じゃったそうだなと、恐入った御挨拶でござえんしょう。見れア忰の位牌を丁と床の間に飾ってお膳がすえてあると云う訳なんだ。坊さんは、××大将は浄土だが、私は真言だからと・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 深水が、これも人はいい、のみこみ屋の単純さで、「――こないだ、きみのおっかさんに逢ったときも、心配してござらっしゃった。三吉が東京へゆくと申しますが、あれに出てゆかれたらあとが困りますなんてなぁ、きみも長男だからね」 などとい・・・ 徳永直 「白い道」
・・・石榴の花と百日紅とは燃えるような強い色彩を午後の炎天に輝し、眠むそうな薄色の合歓の花はぼやけた紅の刷毛をば植込みの蔭なる夕方の微風にゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの風鈴の音――自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴く。聴きおわりたる横顔をまた真向に反えして石段の下を鋭どき眼にて窺う。濃やかに斑を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇が暗きを洩れて和かき香りを放つ。君見よと宵に贈れる花輪のいつ摧け・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 二人はそこにあったもみくしゃの単衣を汗のついたシャツの上に着て今日の仕事の整理をはじめた。富沢は色鉛筆で地図を彩り直したり、手帳へ書き込んだりした。斉田は岩石の標本番号をあらためて包み直したりレッテルを張ったりした。そしてすっかり夜に・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ 作者は、社会主義の社会とその文学に単な合理性や今日では正義と云われている社会化された常識を期待するばかりではない。深い深い人間叡智と諸情感の動いてやまない美を予感する。なぜならば、人類の歴史は常に個人の限界をこえて前進するものである。・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第九巻)」
・・・子供の時以来漢字や漢文を教わって来ていても、右のような単純明白なことを誰も教えてくれなかった。英語の字引きをひいて mustmustなどとあるのをおもしろがっていた年ごろに、もし漢語を同じように写音文字にすれば、どころではなくから、否…と並・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫