天王寺の別当、道命阿闍梨は、ひとりそっと床をぬけ出すと、経机の前へにじりよって、その上に乗っている法華経八の巻を灯の下に繰りひろげた。 切り燈台の火は、花のような丁字をむすびながら、明く螺鈿の経机を照らしている。耳には・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・また少々慾張って、米俵だの、丁字だの、そうした形の落雁を出す。一枚ずつ、女の名が書いてある。場所として最も近い東の廓のおもだった芸妓連が引札がわりに寄進につくのだそうで。勿論、かけ離れてはいるが、呼べば、どの妓も三味線に応ずると言う。その五・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・浅草橋の野田屋や築地の丁字屋から借舟をするにしても、バッテラと荷足とは一日の借賃に非常な相違があった。 土曜といわず日曜といわず学校の帰り掛けに書物の包を抱えたまま舟へ飛乗ってしまうのでわれわれは蔵前の水門、本所の百本杭、代地の料理屋の・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ 一方が公園で、一方が南京町になっている単線電車通りの丁字路の処まで私は来た。若し、ここで私をひどく驚かした者が無かったなら、私はそこで丁字路の角だったことなどには、勿論気がつかなかっただろう。処が、私の、今の今まで「此世の中で俺の相手・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 行燈は前の障子が開けてあり、丁字を結んで油煙が黒く発ッている。蓋を開けた硯箱の傍には、端を引き裂いた半切が転がり、手箪笥の抽匣を二段斜めに重ねて、唐紙の隅のところへ押しつけてある。 お熊が何か言おうとした矢先、階下でお熊を呼ぶ声が・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・出るといきなり、「あなた丁字の花御存じ?」と云った。「丁字? 沈丁とは違うの」「見て下さい、これ今お友達から送って下すったの。余りいい香いで嬉しくなったから一寸あなたにも香わせて上げようと思って」 千鶴子は手にもっている・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
出典:青空文庫