・・・ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子である。これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑しかったも・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 監督が丁寧に一礼して部屋を引き下がると、一種の気まずさをもって父と彼とは向かい合った。興奮のために父の頬は老年に似ず薄紅くなって、長旅の疲れらしいものは何処にも見えなかった。しかしそれだといって少しも快活ではなかった。自分の後継者であ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 獄丁二人が丁寧に罪人の左右の臂を把って、椅子の所へ連れて来る。罪人はおとなしく椅子に腰を掛ける。居ずまいを直す。そして何事とも分からぬらしく、あたりを見廻す。この時熱を煩っているように忙しい為事が始まる。白い革紐は、腰を掛けている人を・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・「はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」「憚り様ね。」「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」「何ね、」「貴下、そのを、端書を読む、つなぎに・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・拠処なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には僕が余り俄に改まったのを可笑しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して逃げてしまうという風で、とにかく一重の垣が二人の間に結ばれた様な気・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「どうせ、丁寧に教えてあげる暇はないのだから、お礼を言われるまでのことはないのです」「この暑いのに、よう精が出ます、な、朝から晩まで勉強をなさって?」「そうやっていなければ喰えないんですから」「御常談を――それでも、先生はほ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ドウしてコンナ、そこらに転がってる珍らしくもないものを叮嚀に写して、手製とはいえ立派に表紙をつけて保存する気になったのか今日の我々にはその真理が了解出来ないが、ツマリ馬琴に傾倒した愛読の情が溢れたからであるというほかはない。私の外曾祖父とい・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・と、快活に、お姉さんにむかって、丁寧にあいさつをしました。 一目見て、元気そうな、目のくりくりした子供でしたから、お姉さんも笑って、「いらっしゃい。」と、あいさつをなさいました。 秀ちゃんは、はじめてのお家へきたので、かしこまっ・・・ 小川未明 「二少年の話」
・・・終ると、男も同じように、糞丁寧な挨拶をした。 私はなにか夫婦の営みの根強さというものをふと感じた。 汽車が来た。 男は窓口からからだを突きだして、「どないだ。石油の効目は……?」「はあ。どうも昨夜から、ひどい下痢をして困・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・弟子は叮嚀に巻いて紐を結ぶ。 中には二三本首を傾げて注意しているようなものもあったが、たいていは無雑作な一瞥を蒙ったばかしで、弟子の手へ押しやられた。十七点の鑑定が三十分もかからずにすんだ。その間耕吉は隠しきれない不安な眼つきに注意を集・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫