・・・その上にもニイチェの名は、一時日本文壇の流行児でさへもあつた。丁度大正時代の文壇で、一時トルストイやタゴールが流行児であつた如く、ニイチェもまたかつて流行児であつた。そしてトルストイやタゴールが廃つた如く、ニイチェもまた忽ちに廃つてしまつた・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃が山のように積んであった。門の外から持ち込んだものだか、門内のどこからか持って来たものだか分らなかった。塵の下に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 今、実例をツルゲーネフに取ってこれを云えば、彼の詩想は秋や冬の相ではない、春の相である、春も初春でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度桜花が爛と咲き乱れて、稍々散り初めようという所だ、遠く霞んだ中空に、美しくおぼろおぼろとした・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・己は何日もはっきり意識してもいず、また丸で無意識でもいず、浅い楽小さい嘆に日を送って、己の生涯は丁度半分はまだ分らず、半分はもう分らなくなって、その奥の方にぼんやり人生が見えている書物のようなものになってしまった。己の喜だの悲だのというもの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・余は女主人に向いて鳥井峠へ上るのであるが馬はなかろうかと尋ねると、丁度その店に休でいた馬が帰り馬であるという事であった。その馬士というのはまだ十三、四の子供であったが、余はこれと談判して鳥井峠頂上までの駄賃を十銭と極めた。この登路の難儀を十・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ それを読んでしまうかしまわないうち、私たちは一ぺんに飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです。 丁度この日は校長も出張から帰って来て、学校に出ていました。黒板を見てわらっていました、それから繭を売るのが済んだら自分も行こうと云うので・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・通ったのは、丁度田舎の盆の間であったから、田圃には全く人かげがなかった。そしてその広大な稲田の全面積は、農民の人々のよろこび、それを眺めてとおる私たちのうれしさという感じとは少しちがった、威圧するような気分を与えるのであった。 稲田は、・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・ 丁度近所の人の態度と同じで、木村という男は社交上にも余り敵を持ってはいない。やはり少し馬鹿にする気味で、好意を表していてくれる人と、冷澹に構わずに置いてくれる人とがあるばかりである。 それに文壇では折々退治られる。 木村はただ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のような形をしているに相違ないと灸は考えた。 雨垂れの音が早くなった。池の鯉はどうしているか、それがまた灸には心配なことであった。「雨こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 暗い外・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ひどく尊敬しているらしい口調で話して、その外の事は言わずにしまった。丁度親友の内情を人に打ち明けたくないのと、同じような関係らしく見えた。 そこで己は外の方角から、エルリングの事を探知しようとした。 己はその後中庭や畠で、エルリング・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫