・・・ しかし万一もし盗んでいたとすると放下って置いては後が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行ることは得為すまいと考えたから尚お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。 どちらにしてもお徳が言った通り、彼処へ竹の木戸・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・君の熔金の廻りがどんなところで足る足らぬが出来るのも同じことである。万一異なところから木理がハネて、釣合を失えば、全体が失敗になる。御前でそういうことがあれば、何とも仕様は無いのだ。自分の不面目はもとより、貴人のご不興も恐多いことでは無いか・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・もし、万一、あの人のかえりがおくれたとしたら、それは、彼のわるいせいではなく、やむをえない不意の出来ごとが妨げをしたのである。そのときには私はよろこんであの人の代りに殺されて見せる。」 デイモンはこう言って落ちつき払っておりました。・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・その時のジャアナリズムが、政府の方針を顧慮し過ぎて、自分の小説の発表を拒否する事が、もし万一あったとしても、自分は黙って書いて行きます。発表せずとも、書き残して置くつもりです。自分は明白に十九世紀の人間です。二十世紀の新しい芸術運動に参加す・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・君に酒をのむことを教えたのは僕ではないかと思いますが、万一にも君が酒で失敗したなら僕の責任のような気がして僕は甚だ心苦しいだろう。すっかり健康になるまで酒は止したまえ。もっとも酒について僕は人に何も言う資格はない。君の自重をうながすだけのこ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・おなじような論理の錯誤から実際の刑事事件について無実の罪が成立する恐れが万一ありはしないか。そんなことを考えさせられるのであった。 近ごろ、某大官が、十年前に、六百年昔の逆賊を弁護したことがあったために、現職を辞するのやむなきに立ち至っ・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・万に一つの誤りをも恐るるならばむしろ一切意見の発表を止めねばならない。万一の誤りを教えてならないとなれば世界中の学校教員は悉皆辞職しなければならない。万一の危険を恐れれば地震国の日本などには住まわぬがよいというと一般なものである。恐るべきは・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・田崎は万一逃げられると残念だから、穴の口元へ罠か其れでなくば火薬を仕掛けろ。ところが、鳶の清五郎が、組んで居た腕を解いて、傾げる首と共に、難題を持出した。「全体、狐ッて奴は、穴一つじゃねえ。きつと何処にか抜穴を付けとくって云うぜ。一方口・・・ 永井荷風 「狐」
・・・それにも係らず黙々として僕は一語をも発せず万事を山本さんに一任して事を済ませたのは、万一博文館が訴訟を提起した場合、当初出版の証人として木曜会会員の出廷を余儀なくせしむるに至らむ事を僕は憚った故である。博文館は既に頃日、同館とは殆三十年間交・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・「もし万一御留守中に病気で死ぬような事がありましてもただは死にませんて」「へえ」「必ず魂魄だけは御傍へ行って、もう一遍御目に懸りますと云った時に、亭主は軍人で磊落な気性だから笑いながら、よろしい、いつでも来なさい、戦さの見物をさ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫