・・・頭を挙げると朝の空気のなかに光の薄れた電燈が、睡っている女の顔を照していた。 花売りの声が戸口に聞こえたときも彼は眼を覚ました。新鮮な声、と思った。榊の葉やいろいろの花にこぼれている朝陽の色が、見えるように思われた。 やがて、家々の・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・綱雄さんが来たらば言っつけて上げるからいい。ほんとに憎らしい父様だよ。と光代はいよいよむつかる。いやはや御機嫌を損ねてしもうた。と傍の空気枕を引き寄せて、善平は身を横にしながら、そうしたところを綱雄に見せてやりたいものだ。となおも冷かし顔。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ さア初めろと自分の急き立つるので、そろそろ読み上げる事になった。自分がそばで聴くとは思いがけない事ゆえ、大いに恐縮している者もある。それもそのはずで、読む手紙も読む手紙もことごとく長崎より横須賀より、または品川よりなど、初めからそんな・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・役員は、それをも掘り上げることを命じた。「これゃ、支柱をあてがわにゃ、落盤がありゃしねえかな。」脚の悪い老人は、心配げにカンテラをさし上げて広々とした洞窟の天井を見上げた。「岩質が堅牢だから大丈夫だ。」 老人はなお、ざら/\に掘・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
わたくしの学生時代の談話をしろと仰ゃっても別にこれと云って申上げるようなことは何もございません。特にわたくしは所謂学生生活を仕た歳月が甚だ少くて、むしろ学生生活を為ずに過して仕舞ったと云っても宜い位ですから、自分の昔話をして今の学生諸・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ 親分は浴衣の裾をまくり上げると源吉を蹴った。「立て!」 逃亡者はヨロヨロに立ち上った。「立てるか、ウム?」そう言って、いきなり横ッ面を拳固でなぐりつけた。逃亡者はまるで芝居の型そっくりにフラフラッとした。頭がガックリ前にさがっ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・その汗を流して手に入れたものを、ただで他に上げるということは出来ない。貰う方の人から言っても、ただ物を貰うという法はなかろう。」 こう言い乍ら、自分は十銭銀貨一つ取出して、それを男の前に置いて、「僕の家ばかりじゃない、何処の家へ行っ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・そのごほうびに、きょうは一日おひまを上げるから、どこへでもいってお出で。ただ、このおやすみは、神さまが下さったのだということをわすれてはいけないよ。うかうかくらしてしまわないで、何かいいことをおぼえて来なければ。」と言いました。 男の子・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・締め上げると、きゅっと鳴る博多の帯です。唐桟の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店ものだか、わけのわからぬ服装になってしまいました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。 それでこの書物の内容も結局はモスコフ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
出典:青空文庫