・・・その拍子に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂いた。彼は思わず首を縮めながら、砂埃の立つのを避けるためか、手巾に鼻を掩っていた、田口一等卒に声をかけた。「今のは二十八珊だぜ。」 田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないよ・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・そこで女はいら立たしいながらも、本堂一ぱいにつめかけた大勢の善男善女に交って、日錚和尚の説教に上の空の耳を貸していました。――と云うよりも実際は、その説教が終るのを待っていたのに過ぎないのです。「所が和尚はその日もまた、蓮華夫人が五百人・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。 潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・半ば上の空でいううちに、小県のまた視めていたのは、その次の絵馬で。 はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛なすりつけた、波の線が太いから、海を被いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈、比目魚には、どんよりと色が赤い。赤あかえいだ。が・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・窓の硝子を透して、雫のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際上の空でいたのであった。 さあ、浅草へ行くと、雷門が、鳴出したほどなその騒動。 どさどさ打まけるように雪崩れて総立ちに電車を出る、乗合のあわただし・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・やがて、その黒い点は、だんだん大きくなって、みんなの頭の上の空に飛んできたのです。そして、あちらの町の建物の屋根に止まりました。 それは、夕暮れ方の太陽の光に照らされて、いっそう鮮かに赤い毛色の見える、赤い鳥でありました。「さあ、こ・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ このとき、黒く、雲のように、頭の上の空をかすめて飛んでいったものがあります。女ちょうは昨日から、この野の中に一夜を明かしたのであるが、音のする上を見あげて、渡り鳥にしては小さいと思ったので、「あれは、なんですか。」と、花に向かって・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・海の上の空を、いぶし銀のように彩って、西に傾いた夕日は赤く見えていました。人々は、おいおいにその広場から立ち去りました。うす青い着物をきた姉は、弟をいたわって、自分たちもそこを去ろうとしたときであります。 一人の見なれない男が、姉の前に・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・一番賑やかな明るい通りの上の空が光を反射していた。龍介は街に下りる道を歩きながら、 ――俺はいったい何がしたいんだろう、と考えた。しかし分らなかった。分らない? フンこんなばかな理窟の通らない話があるか、そう思い、龍介は独りで苦笑した。・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫