・・・ 予審調書じゃないんだから、余り突っ込まないで下さい。 そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場の事だから、些か恰好の異った人間たちが、沢山、気取ってブラついていた。私はその時、私がどん・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ちょいとおいでなすッて下さい。花魁、困りますよ」と、吉里の後から追い縋ッたのはお熊という新造。 吉里は二十二三にもなろうか、今が稼ぎ盛りの年輩である。美人質ではないが男好きのする丸顔で、しかもどこかに剣が見える。睨まれると凄いような、に・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・それから勲章をお貰いになったお祝を申上げた時、お葉書を一度下さいましたっけ。それにわたくしはどうでございましょう。 わたくしはあなたの記念を心の隅の方に、内証で大切にしまって置いて、昔のようになんの幸福もなしに暮らしていました。それから・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ではたと倒れた、それを如何にも残念と思うた様子で、喘ぎ喘ぎ頭を挙げて見ると、目の前に鼻の欠けた地蔵様が立ってござるので、その地蔵様に向いて、未来は必ず人間界に行かれるよう六道の辻へ目じるしの札を立てて下さいませ、この願いが叶いましたら、人間・・・ 正岡子規 「犬」
・・・殊にあらしの次の日などは、あっちからもこっちからもどうか早く来てお庭をかくしてしまった板を起して下さいとか、うちのすぎごけの木が倒れましたから大いそぎで五六人来てみて下さいとか、それはそれはいそがしいのでした。いそがしければいそがしいほど、・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・耳を澄ましていると、「御免下さい」 婆さんが襖をあけた。「何にもありませんですがお仕度が出来ました、持って上ってようございますか」 陽子は気をとられていたので、いきなりぼんやりした。「え?」「御飯に致しましょうか」・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・給仕が往って暫く聞いていたが、「少々お待下さい」と云って置いて、木村の処へ来た。「日出新聞社のものですが、一寸電話口へお出下さいと申すことです。」 木村が電話口に出た。「もしもし。木村ですが、なんの御用ですか。」「木村先生で・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・そこでどうにかして一度御亭主に逢わせて下さいと云って、わたくしは歎願しましたね。しかしどうしてもあなたは聴きませんでしたね。するとある日の事、たしか午後にわたくしの所にいらっしゃった時でした。あなたは手紙をお落しなすったのです。わたくしはお・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・起きたら遊んでやって下さいな。いい子ね、坊ちゃんは。」 灸は障子が閉まると黙って下へ降りた。母は竈の前で青い野菜を洗っていた。灸は庭の飛び石の上を渡って泉水の鯉を見にいった。鯉は静に藻の中に隠れていた。灸はちょっと指先を水の中へつけてみ・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫