・・・日本アルプス横断中、一時行方不明になった第一高等学校の生徒三名は七日上高地の温泉へ着した。一行は穂高山と槍ヶ岳との間に途を失い、かつ過日の暴風雨に天幕糧食等を奪われたため、ほとんど死を覚悟していた。然るにどこからか黒犬が一匹、一行のさまよっ・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・彼は私が私の不明を恥じるだろうと予測していたのであろう。あるいは一歩進めて、鑑賞上における彼自身の優越を私に印象させようと思っていたのかも知れない。しかし彼の期待は二つとも無駄になった。彼の話を聞くと共に、ほとんど厳粛にも近い感情が私の全精・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・ こないな意気地なしになって、世の中に生きながらえとるくらいなら、いッそ、あの時、六カ月間も生死不明にしられた仲間に這入って、支那犬の腹わたになっとる方がましであった。それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でも・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 淡島堂というは一体何を祀ったもの乎祭神は不明である。彦少名命を祀るともいうし、神功皇后と応神天皇とを合祀するともいうし、あるいは女体であるともいうが、左に右く紀州の加太の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまに・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして、三人のものがいまだに行方不明であることを思い出したのであります。「よく帰ってきた。もうみんなは死んだものと思っていた。おまえたちは、幸福の島にでも救われていたのか?」と、群集の中から、一人がいいました。「幸福の島?」と、その・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ かゝる無理な場合でも、子供は、母親に対し、不明な教師に対して、抗議する何等の力を持っていない。それ故に母親が自から改めなければ、強権の力を頼んでも試験勉強の如きを廃して、幾百万の児童を救ってもらいたいと思うのであります。 お母さん・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・行方不明だという。上京の目的の半分は武田さんに会うことだった。 雑誌社へきけば判るだろうと思い、文芸春秋社へ行き、オール読物の編輯をしているSという友人を訪ねると、Sはちょうど電話を掛けているところだった。「もしもし、こちらは文芸春・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・この人々は大概、いわゆる居所不明、もしくは不定な連中であるから文公の今夜の行く先など気にしないのも無理はない。しかしあの容態では遠からずまいってしまうだろうとは文公の去ったあとでのうわさであった。「かわいそうに。養育院へでもはいればいい・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 松木と武石との中隊が、行衛不明になった時、大隊長は、他の中隊を出して探索さした。大隊長は、心配そうな顔もしてみせた。遺族に対して申訳がない、そんなことも云った。――しかし、内心では、何等の心配をも感じてはいない。ばかりでなく、むしろ清・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛みのためか、あるいは少し度の過ぎた勉学のためか何か知らぬが気の毒にも不明の病気に襲われた。その頃は世間に神経衰弱という病名が甫めて知られ出した時分・・・ 幸田露伴 「観画談」
出典:青空文庫