・・・そして病気が重ってから、なけなしの金を出してして貰った古賀液の注射は、田舎の医師の不注意から静脈を外れて、激烈な熱を引起した。そしてU氏は無資産の老母と幼児とを後に残してその為めに斃れてしまった。その人たちは私たちの隣りに住んでいたのだ。何・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・(暗くなると、巴が一つになって、人魂の黒いのが歩行お艶様の言葉に――私、はッとして覗きますと、不注意にも、何にも、お綺麗さに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・池があぶないあぶないと思っていながら、何という不注意なことをしたんだろう。自分もいまさらのごとくわが不注意であったことが悔いられる。医師はそのうち帰ってしまわれた。 近所の人々が来てくれる。親類の者も寄ってくる。来る人ごとに同じように顛・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・先度は親の不注意もあったと思えばこそ、ぜひ斎藤へはやりたいのだ。どこから見たって不足を言う点がないではないか、生若いものであると料簡の見留めもつきにくいが斎藤ならばもう安心なものだ。どうしても承知ができないか」 父は沸える腹をこらえ手を・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・しかし、私の不注意から、ご心配をかけましてすみません。」「君は、おばあさんをかばおうとしたばかりに、自分がけがをしたという話だが、私は、君の誠実に感心するよ。」「あのときは、ただ老人をひいてはたいへんだという心だけで、ほかのものが目・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・とて求め来たりし育児に関する書籍などを妻はまだろくろく見もせぬうちに、母上は老眼に眼鏡かけながら暇さえあれば片っ端より読まれ候てなるほどなるほどと感心いたされ候ことに候、右等の事情より自然未熟なる妻の不注意をはなはだ気にしたもうという次第し・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・彼は橇が逃げてしまったのを部下の不注意のせいに帰して、そこらあたりに居る者をどなりつけたり、軍刀で雪を叩いたりした。彼の長靴は雪に取られそうになった。吉原に錆びさせられて腹立てた拍車は、今は、歩く妨げになるばかりだった。 食うものはなく・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・運わるく彼の挨拶がむこうの不注意からそのひとに通じなかったときや、彼が昨晩ほね折って貼りつけたばかりの電柱のビラが無慙にも剥ぎとられているのを発見するときには、ことさらに仰山なしかめつらをするのであった。やがて彼は、そのまちでいちばん大きい・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・私はたと困惑、濡れ鼠のすがたのまま、思い設けぬこの恥辱のために満身かっかっとほてって、蚊のなくが如き声して、いま所持のお金きっちり三十銭、私の不注意でございました。なんとか助けて下さい、と懇願しても、その三十歳くらいの黄色い歯の出た痩せこけ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ とにかく、わずかな季節の差違で、去年はなかったものが、今突然目の前に出現したように思われるのであった。不注意なわれわれ素人には花のない見知らぬ樹木はだいたい針葉樹と扁葉樹との二色ぐらいか、せいぜいで十種二十種にしか区別ができないのに、・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
出典:青空文庫