・・・先年、犬養内閣が成立したとおなじ日に一羽のローラーカナリヤが迷い込んで来たのを捕えて飼っているうち、ある朝ちょっとの不注意で逃がしてしまった。そのおなじ日の夕方帰宅して見ると茶の間の真中に一匹の真白な小猫が坐り込んですましてお化粧をしていた・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・ただ平時の不注意や不始末で莫大な金を煙にした上に沢山の犠牲者を出すようなことだけはしたくないものである。 これは余談であるが、一、二年前のある日の午後煙草を吹かしながら銀座を歩いていたら、無帽の着流し但し人品賤しからぬ五十恰好の男が向う・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・これに対する世評も区々で、監督の先生の不注意を責める人もあれば、そういう抵抗力の弱い橋を架けておいた土地の人を非難する人もあるようである。なるほどこういう事故が起こった以上は監督の先生にも土地の人にも全然責任がないとは言われないであろう。し・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・ この場合も全然乗客の方の不注意であって車掌に対しては一言の云い分もない。 電気局から鋏穴の検査を励行するように命令し奨励するとすれば、車掌がこれを遂行するのは当然の事である。そして車掌の人柄により乗客の種類によりそこに色々の場面が・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 梅雨期が来ると一雨ごとに緑の毛氈が濃密になるのが、不注意なものの目にもきわ立って見える。静かな雨が音もなく芝生に落ちて吸い込まれているのを見ていると、ほんとうに天界の甘露を含んだ一滴一滴を、数限りもない若芽が、その葉脈の一つ一つを歓喜・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・平生はただ美しいとばかりで不注意に見過ごしている秋の森の複雑な色の諧調は全く臆病な素人絵かきを途方にくれさせる。まだ目の鋭くないわれわれ初学者にとってはおそらくこれほどいい材料はあるまい。しかし黒人になればたぶんただ一面のちゃぶ台、一握りの・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・やむすこのような自由意志を備えた存在でもなく、主としてセリュローズと称する物質が空気中で燃焼する物理学的化学的現象であって、そうして九九プロセントまでは人間自身の不注意から起こるものであるというのは周知の事実である。しかし、それだから火事は・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・天体の影響などは云うに足らぬし、普通の場合ならば電気や磁気の影響は小さいであろうが、しかしもし不注意にも鉄の振子を強い磁石の傍で振らせたり、あるいは軽い振子の場合に箱のガラスが荷電していたりしては決して正しい結果は得られるはずはない。箱の中・・・ 寺田寅彦 「物理学実験の教授について」
・・・たうえ、なおH着の時間を電報で言ってやるべきであるが、なるべくお互いの面倒を省いて簡略に事を済ますのが当世だと思って、わざと前触れなしに重吉を襲ったのであるが、いよいよ来てみると、自分のやり口はただの不注意から、出る不都合な結果を、自分のう・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・一つの不注意な失策も、彼らの崩壊と死滅を意味する。町全体の神経は、そのことの危懼と恐怖で張りきっていた。美学的に見えた町の意匠は、単なる趣味のための意匠でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。 始めてこのことに気が付いてから、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫