・・・百種にあまる色さまざまの計画が両国の花火のようにぱっとひらいては消え、ひらいては消え、これときまらぬままに、ふらふら鎌倉行の電車に乗った。今夜、死ぬのだ。それまでの数時間を、私は幸福に使いたかった。ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 両国の花火のモンタージュがある。前にヤニングス主演の「激情のあらし」でやはり花火をあしらったのがあった。あの時は嫉妬に燃える奮闘の場面に交錯して花火が狂奔したのでずいぶんうまく調和していたが、今度のではそういう効果はなかったようである・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・それはとにかく、その勧工場のもう一つ前の前身としては浅草の仲見世や奥山のようなものがあり、両国の橋のたもとがあり、そうして所々の縁日の露店があったのだという気がする。田舎では鎮守の祭りや市日の売店があった。西洋でもおそらく同様であったろうと・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ぎに新宿の某地下食堂待合室の大きな皮張りの長椅子の片すみに陥没して、あとから来るはずの友人を待ち合わせていると、つい頭の上近くの天井の一角からラジオ・アナウンサーの特有な癖のある雄弁が流れ出していた。両国の相撲の放送らしい。野球の場合とちが・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・ 四 八月二十四日の晩の七時過ぎに新宿から神田両国行きの電車に乗った。おりから防空演習の予行日であったので、まだ予定の消燈時刻前であったが所によっては街路の両側に並んだ照明燈が消してあった。しかし店によってはまだ・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・例えば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかったように、吉原の遊里もまたどうやらこうやら伝来の風習と格式とを持続して行く事ができたのである。 泉鏡花の小説『註文帳』が雑誌『新小説』に出たのは明治三十四年で、一葉柳浪二・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 明治四十一年わたしは海外より還って再び島田を見た時、島田は既に『古文旧書考』四巻の著者として、支那日本両国の学界に重ぜられていた。一日島田はかつて爾汝の友であった唖々子とわたしとを新橋の一旗亭に招き、俳人にして集書家なる洒竹大野氏をわ・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・西、両国、東、小柳と呼ぶ呼出し奴から行司までを皆一人で勤め、それから西東の相撲の手を代り代りに使い分け、果は真裸体のままでズドンと土の上に転る。しかしこれは間もなく警察から裸体になる事を禁じられて、それなり縁日には来なくなったらしい。・・・ 永井荷風 「伝通院」
一 四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くという当もない。船でも車でも、動いているものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。世・・・ 永井荷風 「向島」
出典:青空文庫