・・・ですから妙子は一生懸命に、震える両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移ったように、見せかける時の近づくのを今か今かと待っていました。 婆さんは呪文を唱えてしまうと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりを・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ と沖の方を見ていた妹が少し怖そうな声でこういきなりいいましたので、私たちも思わずその方を見ると、妹の言葉通りに、これまでのとはかけはなれて大きな波が、両手をひろげるような恰好で押寄せて来るのでした。泳ぎの上手なMも少し気味悪そうに陸の・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・その娘は何でも目に見えるものを皆優しい両手で掻き抱き、自分の胸に押しつけたいと思うような気分で、まず晴れ渡った空を仰いで見て、桜の木の赤味を帯びた枝の方を見て、それから庭の草の上に寝ころんで顔を熱く照らす日に向けて居た。しかしそれも退屈だと・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 立花は目よりもまず気を判然と持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと眼を開いた。 なぜなら、今そうやって跪いた体は、神に対し、仏に対して、ものを打・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・娘はふたたびあがってきて、舟子が待っておりますでございますと例のとおりていねいに両手をついていう。「どうでしょう、雨になりはしますまいか、遠くへのりだしてから降られちゃ、たいへんですからな」といえば、「ハイ……雨になるようなこと・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・と立ちあがって、両手を出した。「ほうるよ」と、しなやかにだが、勢いよくからだが曲がるかと思うと、黒い物が飛んで来て、正ちゃんの手をはずれて、僕の肩に当った。「おほ、ほ、ほ! 御免下さい」と、向うは笑いくずれたが、すぐ白いつばを吐いて・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・と、U氏は両手で頭を抱えて首を掉り掉り苦しそうに髪の毛を掻き揉った。「君はYから何も聞かなかったかい?」「何にも聞きません。」「こんな弱った事はない、」と、U氏は復た暫らく黙してしまった。やがて、「君は島田のワイフの咄を何処かで聞い・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・と、按摩はあわてて両手で地面を探しはじめました。 指のさきは、寒さと、冷たさのために痛んで、石ころであるか、土であるか、それとも、銅貨であるかさえ判断がつかなかったのでした。通る人たちは、わき見もせずに、みんな寒いので家の方へ急いでいま・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・とばかり、男は酔いも何も醒め果ててしまったような顔をして、両手を組んで差し俯いたまま辞もない。 女もしばらくは言い出づる辞もなく、ただ愁そうに首をば垂れて、自分の膝の吹綿を弄っていたが、「ねえ金さん、お前さんもこれを聞いたら、さぞ気貧い・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 爺さんは両手を前へ出して、見物の一人一人からお金を貰って歩きました。 大抵な人は財布の底をはたいて、それを爺さんの手にのせて遣りました。私の乳母も巾着にあるだけのお金をみんな遣ってしまいました。 爺さんは金をすっかり集めてしま・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫