・・・それ故、知識階級の夫人や娘の顔よりも、この窓の女の顔の方が、両者を比較したなら、わたくしにはむしろ厭うべき感情を起させないという事ができるであろう。 呼ばれるがまま、わたくしは窓の傍に立ち、勧められるがまま開戸の中に這入って見た。 ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・僕は図らずもこの両者に接して、現代の邦家を危くする二つの悪例を目撃し、転時難を憂るの念に堪えざる如き思があった。ここに此の贅言を綴った所以である。トデモ言うより外に仕様がない。年の暮も追々近くなる時節柄お金を取られるのは誰しもいやサ。昭・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・普通の踊子が裸体を勤める女に対して影口をきくこともなく、各その分を守っているとでもいうように、両者の間には何の反目もない。楽屋はいつも平穏無事のようである。 踊子の踊の間々に楽屋の人たちがスケッチとか称している短い滑稽な対話が挿入される・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・この両者を前に申述べた教育と対照いたしますと、ローマンチシズムと、昔の徳育即ち概念に囚れたる教育と、特徴を同うし、ナチュラリズムと現今の事実を主とする教育と、相通うのであります。以前文芸は道徳を超絶するという議論があり、またこれを論じた大家・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・電車も人も載せる。両者を知ったものが始めて両者の利害長短を比較するの権利を享ける。中学の課目は数においてきまっている。時間の多少は一様ではない。必要の度の高い英語のごときは比較的多くの時間を占領している。批評の条項についても諸人の合意でこれ・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・けれどももし倫理的の分子が倫理的に人を刺戟するようにまたそれを無関係の他の方面にそらす事ができぬように作物中に入込んで来たならば、道徳と文芸というものは、けっして切り離す事のできないものであります。両者は元来別物であって各独立したものである・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・徳行の点から見ても、宗教は自ら徳行を伴い来るものであろうが、また必ずしもこの両者を同一視することはできぬ。昔、融禅師がまだ牛頭山の北巌に棲んでいた時には、色々の鳥が花を啣んで供養したが、四祖大師に参じてから鳥が花を啣んで来なくなったという話・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・而して両者共に無限の過程である。右にいった如く、私の行為的直観というのは無限の過程である。否定的自覚というのも無限の過程である。アランのいう如く、懐疑的自覚は幾度も繰返されなければならない。 哲学の立場は、見るものなくして見る立場、考え・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・しかも新約は旧約の続篇で、且つ両者の精神を本質的に共通して居る。ニイチェのショーペンハウエルに於ける場合も、要するにまたこれと同じである。ニイチェは如何にその師匠に叛逆し、昔の先生を「老いたる詐欺師」と罵つたところで、結局やはりショーペンハ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・一 夫妻同居して妻たる者が夫に対して誠を尽す可きは言うまでもなき事にして、両者一心同体、共に苦楽を与にするの契約は、生命を賭して背く可らずと雖も、元来両者の身の有様を言えば、家事経営に内外の別こそあれ、相互に尊卑の階級あるに非ざれば、一・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
出典:青空文庫