・・・芝居の小道具づくりの家であったり、芸者の置屋であったり、また自前の芸者が母親と猫と三人で住んでいる家であったりして、長屋でありながら電話を引いている家もあるというばかりでなく、夜更けの方が賑かだという点でも変っていて、そして何となく路地全体・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 北には加茂の森が赤い鳥居を点じていた。その上に遠い山々は累って見える。比叡山――それを背景にして、紡績工場の煙突が煙を立登らせていた。赤煉瓦の建物。ポスト。荒神橋には自転車が通り、パラソルや馬力が動いていた。日蔭は磧に伸び、物売りのラ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・「けれども艶福の点において、われわれは樋口に遠く及ばなかった」と、上田は冷ややかに笑います、鷹見は、「イヤ、あんな男に限って、女にかあいがられるものサ、女の言いなりほうだいになっていて、それでやはり男だから、チョイと突っ張ってみる、・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 権利思想の発達しないのは、東洋の婦人の時代遅れの点もあろうが、われわれはアメリカ婦人のようなのが、婦人として本性にかなった正常な姿ではなく、やはり社会の欠陥から生じた変態であって、われわれは早く東洋的な、理想的国家をつくって、東洋婦人・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや/\這入って来た。 郵便局の騒ぎはすぐ病院へ伝わった。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・に於て取られた言語体の文章は其組織や其色彩に於いて美妙君のの一派とは大分異っていた為、一部の人々をして言語体の文章と云うものについて、内心に或省察をいだかしめ、若くは感情の上に或動揺を起さしめた点の有った事は、小さな事実には過ぎなかったにせ・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
・・・その満足・幸福の点においては、七十余歳の吉田忠左衛門も、十六歳の大石主税も、同じであった。その死の社会的価値もまた、寿夭の如何に関するところはないのである。 人生、死に所を得ることはむつかしい。正行でも重成でも主税でも、短命にして、かつ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、思い思いに流行の風俗を競おうとするような女学校通いの娘たちが右からも左からもあの電車の交差点に群がり集まっていた。 私たち親子のものが今の住居を見捨てようとしたころには、こんな新・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・仮に現在普通の道徳を私が何らかの点で踏み破るとする。私にはその後のことが気づかわれてならない。それが有形無形の自分の存在に非常の危険を持ち来たす。あるいは百年千年の後には、その方が一層幸福な生存状態を形づくるかも知れないが、少なくともすぐ次・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫